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  <title>ソロツーリングと気ままな旅 - 旅と気ままなフォーラム - 旅に関すること - [ 旅と歴史のフォーラム ]</title>
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  <lastBuildDate>Thu, 07 May 2026 22:50:06 +0900</lastBuildDate>
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    <title>アイヌ人の起源はいつか</title>
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    <pubDate>Fri, 30 Jan 2026 13:12:53 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[アイヌ人として認識されたのは鎌倉時代であってそれより先の起源は不明です。ただし、縄文人を祖先としていることはDNAから解明されています。従って日本人というジャンルに分類されます。<br><br>日本は、弥生時代、稲作が発展したときに北海道では気温が低く稲作ができなかったため狩猟民族としてそのまま残りました。その時オホーツク人との交流があり、オホーツク人は寒い場所での狩猟に長けていたためその文化が受け入れられたと考えられます。従って、この延長がアイヌ文化(アイヌ人)を形成したと考えられます。<br><br>しかしながら、アイヌ文化は日本語ではなく、他にはない特別な言語、独特の文化を持つため、平和的なものかどうかは別にして縄文人ではないオホーツク人が日本に流入し融合・発展を経て形成されたのではないかとも考えられています。<br><br>いずれにせよ、DNAから、アイヌ人は縄文人を祖先とする日本人と分類されます。<br><br><b>日本政府の見解は大きな誤りである</b><br>国連からの勧告を受け2019年、日本政府はアイヌ人を先住民族であると認めました。このことは大きな矛盾があります。アイヌ人は縄文人を祖先とする日本人であるにもかかわらず、アイヌ人は日本人ではないと国際的に認めたことになります。恐らく明治時代の開墾政策で被害を受けたことから先住民ということが取り沙汰されたものだと考えられます。<br><br>しかし、北海道から沖縄まで日本人の祖先は縄文人であることから、これは日本の内政問題であり、あくまでも日本政府が解決しなければならない問題です。アイヌ人が先住民族であり日本人ではないという国際的な定義づけは大きな誤りです。また、この事によって一般の日本人との差別を助長することにもなります。アイヌ文化を守ることと差別化を図ることは別問題です。今後大きな影響を及ぼすことになるでしょう。最も疑問に思うことは、現代においてアイヌ人と日本人の区別はどうやって判断するのでしょうか。実質的にその方法はないというのが現実です。<br><br>例えば、13世紀の元寇の時代には朝鮮はモンゴルの属国となり支配されていました。この時、多くの朝鮮人はモンゴル人と交わりました。現在、モンゴル人と朝鮮人を区別を行うにはDNA鑑定をするほかに方法はありません。仮に行ったとしても何パーセントが朝鮮人で何パーセントがモンゴル人なのかという判断をしなければなりません。<br><br>もし、この方法でアイヌ人を選別する行為は縄文人(日本人)を基本とするアイヌ人はおろか日本人に対する明かな侮辱となります。なによりもこの方法はその国の分断を生む非常に愚かな行為となります。従って、現状アイヌ人と日本人を区別する実質的な方法はないといっても過言ではありません。<br><br><b>国連への大きな疑念</b><br>あるいは国連の勧告、日本政府の判断というものは分断を生むことが目的なのでしょうか。国連への訴え、国連からの勧告には無責任さと大きな疑念を感じざるを得ません。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>藤の木橋物語</title>
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    <pubDate>Sat, 31 May 2025 04:24:11 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[<div>兵庫県氷上町にある水わかれ(みわかれ)公園の手前に次のような看板が立てられていました。以下のような内容です。なかなか興味深かったので掘り下げてみました。</div>

<div> 
<blockquote>『藤の木橋物語』 昔、地頭に石負の玉の太夫という大金持ちが住んでいました。<br />
一人娘の玉姫は、玉のように美しく近在の若者たちのあこがれの的でした。 そのうちどこからともなく真っ青な直垂(ひたたれ)をつけた、りりしい水もしたたる美しい若者が通ってくるようになりました。<br />
その若者がどこから来るのか突き止めようと腰に赤い糸をつけて後を追っていくと藤の木橋を渡り、遠い山里の大きな池の深みに入って行きました。<br />
古池の大蛇の化身だったのです。<br />
驚いた玉の太夫は、いそ部の神様のお告げを受け、藤の木橋の藤の木にお願いしたところ、その夜のうちに藤のつるが伸びて橋をふさぎ蛇のうろこがいっぱい落ちていました。 それから二度とその男は来なくなったということです。</blockquote>
</div>
 

<div><img alt="藤の木橋物語" src="https://www.onwil.com/uploads/gnavi_onwil/hyogo/miwakare7.jpg" /></div>
 

<p>さて、この物語を読んで、玉姫側から見れば<br />
1.出自を知る為、水もしたたる美しい若者の後を追っていいったことから、この男には関心があった。<br />
2.でも大蛇は嫌で関わりたくない<br />
ということが考えられます。</p>

<p>大蛇側から見れば<br />
1.通ってくるようになったことから玉姫には関心があった。<br />
2.藤のつるが伸びて橋をふさぎ蛇のうろこがいっぱい落ちた事から変身はできないと悟り諦めた。<br />
ということが考えられます。</p>

<p>物語の内容からは大蛇は邪悪なものとして表現されています。その邪悪なものが誰もがうらやむ美しい男性に化けて金持ちの美しい玉姫に近づいてくるという設定はどの時代にもあり得ることです。しかし、ポイントは一体この大蛇は何の目的で玉姫に近づいたのか、本当に大蛇は邪悪なものなのかという点です。</p>

<p>そもそも人間であれば相手が金持ちなので金が目的ということも考えられますが大蛇であることからそれはない。邪心はなく単に近づきたかっただけなのか、復讐か、生贄か、あるいは嫁にしたかったのか。結論として大蛇に聞いてみないとわからないということです。そういう意味では、お告げをした神様は全てを見抜いて大蛇の真の姿を見せようとしたのかもしれません。</p>

<p>この物語の伝えたかったことは水もしたたるいい男には気をつけよという戒めかもしれません。</p>
<!--ckeditor4FlgSource-->]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>淡路島　由良城について</title>
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    <pubDate>Thu, 04 Apr 2024 20:47:23 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[淡路島の洲本城は有名ですが、その前身となる由良城についてはあまり語られることはありません。室町時代から続く城の移り変わりを追ってみました。<br><br><b>①由良古城</b><br>室町時代(1338年～1573年)にこの地で水軍として権力を持っていた安宅氏によって築城されるが1581年豊臣秀吉によって開城。　<br><br><b>②由良城</b><br>江戸時代1613年姫路城藩主池田輝政の三男池田忠雄は成ヶ島に由良城を築城<br><br><b>③洲本城</b><br>江戸時代1615年に阿波藩領となり1631～35年に由良城から城郭を洲本へ移城<br><br>さて、現地に行って次のような疑問が湧いてきました。<br><br><b>②の由良城は脆弱な造りだったのではないか?</b><br>1613年成ヶ島に築城した由良城ですが、短い期間(17年)で移城しています。洲本城のほうが便利だということが一番の理由になっていますが、実は城自体があまり丈夫でなかったのではないかという疑問です。なぜなら、石垣が転用されたというものの、由良古城に比べ石垣の劣化(崩れている)が進んでいるように見えます。また、敷地面積はわかりませんが、広さに関しても圧倒的に由良城のほうが広くそれだけ傷めば傷も大きいと思われます。<br>そうなった要因として<br>1.築城して2年後に阿波藩領になったことから事前に領土が変更されるのを知っていて池田忠雄は仮として手抜きで城を作ったのではないか。<br>2.内陸よりも外側にある島の頂上のため風雨の影響が大きく早く劣化したのではないか。<br>と考えられますが定かではありません。<br><br><b>成ヶ島は沈んでいる?</b><br>地元の人によると子供の頃から比べると沈んでいるという話を聴きました。本当かどうかはわかりません。この話を聴くとすぐに温暖化ということに結びつける人が多いと思います。しかし、もともと成ヶ島は陸続きでした。1765年正月から1年9か月を掛けて北側に大型船が入れるように北側の掘削工事をしています。その後古い港口は波のために埋没し1789年南側が掘り開かれた。これは北側の入口の掘削工事を行い広げることによって25年後南側が波によって埋没したと解釈されます。現在それから250年位経っています。別の角度から考えれば波によって浸食されているとも考えることができます。そもそも成ヶ島だけが沈んでいくということは考えられません。しかし、成ヶ島は自然環境が良い場所です。無人島だとは思いますが、電気も水道もそろっています。<br><br><b>水軍としての地理的立地条件?</b><br>戦国時代、淡路水軍の中心であったというのは頷けます。南側には紀伊水道を見渡す高台(生石)があり、由良港は成ヶ島で風も弱くなり船も付けやすい。水軍としての立地条件としては最高の場所ではないでしょうか。戦時中に砲台が設置されたのも分かります。一昔前までは自衛隊の基地もあったそうです。<br><br><b>由良古城の人はどうなったか?</b><br>はて、1581年豊臣秀吉によって開城されましたが、城に居た人たち一族郎党全て殺害されたのだろうか。豊臣秀吉のこれまでの経緯からその可能性は非常に高いと推察されます。<br><br><b>城と神社は一緒になっている?</b><br>城の中に神社があるというのは特に珍しくはないように思います。そして由良の城の中に成山神社があったとも考えられます。由良には成山神社なるものが３つあります。由良古城跡、成ヶ島の由良城跡、由良の街中です。地元の人の話によると成ヶ島の成山神社はこちらに移したということでしたが、おそらく由良の街中にある成山神社に移したということではないでしょうか。<br> ]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>アイヌは先住民族ではないという解説</title>
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    <pubDate>Thu, 07 Dec 2023 20:17:29 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[<p>このような解説がありました。</p>

<figure>
<figcaption>引用:<cite><a href="https://www.youtube.com/watch?v=-liE1A6cr4I">教科書には無いDNA解析で分かった古代日本人の起源?後半?｜茂木誠 2年前</a></cite></figcaption>

<blockquote> 
<p>鎌倉時代、樺太、カムチャッカ半島などから北から入ってきたオホーツク人(ウィルタやオロチョンなど狩りをする民族)と縄文人が混ざったのがアイヌで平安時代には居なかった。だからアイヌ先住民族説は嘘です。</p>
</blockquote>
</figure>

<p>との内容があります。これは納得できる論説です。単純に考えてもアイヌ文化よりも前に古墳があったことが証明されている以上アイヌが先住民ということはあり得ません。</p>

<p>しかし、2008年に、衆参両議院本会議で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致で採択されました。では、なぜ国会において誰も反対することなく全会一致でが採択されたのか。次のようなことが考えられます。</p>

<ul>
	<li>義務教育によるもの<br />
	国会議員のほとんどは義務教育の過程で先生と生徒という関係でアイヌ民族を先住民族と教えられてきた経緯があり、こんな単純な矛盾があったとしても最初に教えられてきた固定概念が論理よりも優先された結果です。義務教育の段階で疑問を抱く生徒はおそらくいないでしょう。</li>
	<li>国連という肩書<br />
	そもそもこれは日本への国連の勧告によるものです。今でこそ、汚職等、国連という組織に疑問が呈される組織ですが、国連は清廉潔白な組織で国連は正しいという固定概念が反映された結果です。</li>
</ul>]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>元寇の惨状経緯と酷似している点</title>
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    <pubDate>Mon, 13 Feb 2023 08:21:19 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[引用：<div><blockquote>この看板で一番驚いたのは、1回目に秀吉により上月城が落城された後、「城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒した」ことです。改めて戦国時代とは実際そういうものだったのかと思ってしまいます。ただ、この戦いの最後には秀吉が援軍一万に対して毛利軍が三万にも及ぶ大群になったのはこの事が大きな波紋を呼んだのかもしれません。<br></blockquote></div><br>この惨状は元寇の惨状と酷似しています。元寇とは、鎌倉時代1274年・1281年の二度にわたるモンゴル帝国（元朝）の日本侵攻です。年代別にみてみると北条時宗が使節団を斬首したのは元が日本侵攻してきて対馬、壱岐の住民を斬殺したことが原因だとわかります。<br><br>さて、元寇までの経緯を年代別にみると(元寇 - Wikipediaより)<br><ul><li>1266年～1272年<br>第一回～六回使節(交渉)<br><br></li><li>1274年10月　元が対馬、壱岐に侵攻<br>1274年（文永11年・至元11年）10月この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。<br>引用：<div><blockquote>去文永十一年（太歳甲戌）十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉（そうまじょう）等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取（いけどり）ニシ、女ヲハ或ハ取集（とりあつめ）テ、手ヲトヲシテ船ニ結付（むすびつけ）或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是（またかくのごとし）<br></blockquote></div>この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立て、あるいは捕虜としたとしている。<br>この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた。<br>同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン（忽敦）は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ（忽都魯掲里迷失）に献上している<br><br></li><li>1275年2月　第七回使節を斬首<br>使節団は長門国室津に来着するが、執権・北条時宗は使節団を鎌倉に連行すると、龍ノ口刑場（江ノ島付近）において、杜世忠以下5名を斬首に処した</li></ul><br>つまり元との事前交渉が十分であるかどうかは別にして、元が対馬、壱岐に侵攻し領民を斬殺したという波紋が北条時宗に使節団を斬首させ、多くの鎌倉武士を奮い立たせたという経緯が非常によく似ています。<br><br>しかし、元寇に関しても領土侵攻するはっきりとした理由がよく分かりません。つまり領土侵攻する側にとっては理由はなく単に領土がほしいからだという理由に他ならないのです。実は単なる個人の欲あるいは自己満足の為というものかも知れません。約800年経った今も同様のことを繰り返している現状を考えると残念ながら人類が存在する限りこの行為は無くならないかも知れません。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>無理筋の河童フィクション</title>
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    <pubDate>Sat, 14 Aug 2021 06:45:25 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[兵庫県福崎町辻川山公園で町おこしを兼ねた妖怪の河童物語です。看板から抜粋しました。<br>引用：<div><blockquote>河童の河太郎(がたろう)と河次郎(かじろう)<br><br>福崎町には市川という大きな川が流れています。この川の岸に駒ヶ岩という大きな岩がありますが、そこには以前、河童の兄弟、兄の河太郎(カワタロウ)と弟の河次郎(ガジロウ)が住んでいました。二匹は、川へ遊びにやってきた子供の足を掴んで引きずり込み、「尻子玉」を抜いてしまうのです。<br><br>やがて子供たちは河童を怖がって誰も駒ヶ岩で遊ぼうとしなくなりました。二匹の兄弟は、自分たちのせいだと後悔しました。ある日、みんなの寝静まった夜、河太郎たちは柳田国男先生に謝ろうと、駒ヶ岩から生家のあるこの辻川山公園にやってきたのです。二匹は柳田国男先生に会いたくて、毎日毎日この池で待ってました。<br><br>兄の河太郎は池のほとりで、弟の河次郎は皿が乾くと困るので池の中で、それぞれ待つことにしました。二匹は、何年も何年も柳田国男先生を待ち続けました。とうとう兄の河太郎は頭の皿の水がなくなって、固まって動けなくなってしまったのです。こうして河太郎は、池のほとりで動けなくなったまま、今も巌橋の方を見て柳田国男先生の帰りを待っているのです。<br><br>一方、弟の河次郎は池の中にいたので、今でも池の中から出てくることがあります。池の中をずっと覗いていると、尻子玉を抜かれるかもしれませんよ？<br><br>※この物語はフィクションです。<br></blockquote></div><br>うーーん、これはかなり無理筋のフィクションだというのが感想です。子供の尻子玉を抜いてしまうのですという表現は別の表現を使うと子供を殺したということになります。表現を優しくしていますがやっていることは酷い。それに、河童はなぜ柳田国男先生に謝りに行くのでしょうか。<br><br>謝るのであれば子供達に謝るべきで、二度としないからまた遊びに来てねというのが物語の筋でしょう。河童は柳田国男を通して子供達に訴えたかったのかそれもはっきりしません。単に福崎出身の民族学者柳田国男と結び付けたかったという真意が見え隠れする物語です。ひょっとしたら本当かもという真実味が伝わってこないフィクションですね。誰が考えたのでしょう????<br><br>この物語から伝わることで、ただ1つ言えることは河童は本当は子供が好きなのですね。]]></content:encoded>
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    <title>兵庫県佐用町上月城と黒田官兵衛</title>
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    <pubDate>Tue, 03 Aug 2021 04:35:38 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[同じく上月城の登山口前には、織田軍と毛利軍の戦いの内容についてはほぼ同じですが、黒田官兵衛との関わり合いを説明している看板がありました。<br>引用：<div><blockquote>上月城と黒田官兵衛<br>1577(天正五)年、天下統一を目指す織田信長勢は、西国の勇将毛利氏と対立していた。羽柴秀吉を大将とする織田勢は黒田官兵衛などの尽力もあって、播磨をほぼ手中に治めつつあった。播磨・備前・作州の三国に接する要所を治める上月城主(城主名は赤松政範・[赤松]七条・上月十郎[景貞]など諸説ある)は毛利に与(くみ)していたため、同年十一月、秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へ向かうこととなった。<br>佐用に攻め入った秀吉は、まず、黒田官兵衛・竹中半兵衛らに、上月城主に従う福原則尚(助就-スケナリとする書もある)が守る福原城(佐用城)への攻撃を命じ、壮絶な戦いの末、福原城は多くの犠牲を出して落城する。<br><br>勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始する。後の黒田家の記録で「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先陣を務めるが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍三千を得た上月側が攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続く。以後、三ヶ月にも及ぶ籠城戦を迎えるが、城中の謀反者により城主が斬殺されたとも伝えられている。「信長公記」や秀吉自身の文書によると、城内の家臣が降伏を申し出たが、秀吉はこれを許さず、十二月三日の総攻撃によりついに上月城は落城する。全ての城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な結末を迎えたと伝えられている。<br><br>上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩は想像を絶する。上月城主の妻の墓は九州・福岡に実在することから戦いの合間に縁者により救い出されたものと思われる。<br><br>その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿介らの尼子勢が入るが翌年四月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲される。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなる。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正六年七月に落城する。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とに挟まれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最後と共に歴史の表舞台に再び現れることはなかった。<br><br>平成二十五年 佐用町観光協会<br>※本文は伝承を基に作成されたものであり、書物によって諸説がございます。<br></blockquote></div>上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。と親戚であったようです。この時、城内の女性は磔にされているにも関わらず、戦いの合間に縁者によって救い出されるとなっているという裏話があったようです。このことから縁故というものは昔から良いか悪いかは別にして強い絆があったことが伺えます。<br><br> ]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>兵庫県佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦い</title>
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    <pubDate>Sun, 01 Aug 2021 20:50:04 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[このたびのソロツーリングで、兵庫県佐用町にある上月城に登った時のこと、登山遊歩道手前にに次のような説明看板がありました。<br>引用：<div><blockquote>上月城の沿革と攻防<br>上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。<br>上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月跡で、中世山城の様態をよく残している。<br><br>赤松氏は、播磨・備前・美作三ヵ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441年)で総領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配する所となる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返すこととなる。<br><br>天正五年(1577年)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利氏に与(くみ)した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一万五千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃(じじん)して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女子子供二百人を串刺しと磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。<br><br>秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。<br><br>再び、尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より三万の軍勢を以て、天正六年(1578年)四月十八日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。この為、上月城は孤立し遂に七月五日勝久は毛利氏に開城自刃した。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合いの渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。<br><br>この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政八年(1825年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義晃が二五〇回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。<br><br>佐用町観光協会 上月歴史研究会<br></blockquote></div><br>佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦いの経過を要約すると<br><ol><li>・1577年 織田軍豊臣秀吉が大将として近くの福原城を攻略後、十二月三日上月城を落城　(この時全ての城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒される)</li><li>・秀吉は尼子勝久、山中鹿助に城を守らせるが宇喜多勢に攻められ撤退</li><li>・宇喜多は城を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城(景貞は自刃)</li><li>・再び秀吉は尼子勝久、山中鹿助に城を守らせる</li><li>・1578年 四月十八日毛利軍が三万の軍勢を以て城を囲んだ。</li><li>・秀吉は援軍一万の軍勢で高倉山に陣を進めたが三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。</li><li>・七月五日秀吉の救援を絶たれ孤立した上月城を守っていた尼子勝久は自刃、山中鹿助は護送中斬殺</li><li>・上月城廃城</li></ol>ということになります。この看板で一番驚いたのは、1回目に秀吉により上月城が落城された後、「城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒した」ことです。改めて戦国時代とは実際そういうものだったのかと思ってしまいます。ただ、この戦いの最後には秀吉が援軍一万に対して毛利軍が三万にも及ぶ大群になったのはこの事が大きな波紋を呼んだのかもしれません。<br><br>結果的にこの戦いによって織田軍は天下統一がなされたわけでもなく(1582年6月21日本能寺の変で自害したとされる)、単に城を守る者が次々と犠牲になり上月城が廃城になっただけのように思うのです。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>明石の名称の起こり??</title>
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    <pubDate>Thu, 01 Jul 2021 05:57:13 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[兵庫県明石から15kmほど北にある神戸市西区の神出神社の境内に次のような説明看板がありました。<br>引用：<div><blockquote>雌岡山(めっこさん)と雄岡山(おっこさん)<br>大きさも形も瓜二つの山で、その昔、遠くから眺めると子牛の角のように見えたことから、男牛、女牛と言われていたそうです。<br>神話によると、雄岡と雌岡は夫婦の神で男神雄岡が小豆島の美人神に惚れたことから、妻が止めるのも聞かず鹿に乗り、会いに行きました。その途中、淡路島の漁師に弓を撃たれ、男神と鹿は共に海に沈んでしまいました。すると、鹿は忽(たちま)ち赤い石になり、それが明石の名称の起こりとも言われています<br></blockquote></div><br><br>非常に想像をかきたてる物語です。ポイントは猟師ではなく漁師に弓を撃たれたという点です。つまり、雄岡鹿の背に乗り明石を経て小豆島まで途中海を泳がせて行ったと想像されます。無論地形は現在とは異なっているでしょうが少なくとも陸続きにはなっていなかったと思われます。<br><br>ここで弓を撃たれた場所ですが、淡路島の北に鹿の瀬という浅くなった場所があります。位置的にもほぼ明石と小豆島を結ぶ直線上にあります。これを鹿の背と考えればなんとなく辻褄が合うような気がします。ここが弓で撃たれた場所ではと勝手に想像してしまいます。しかし、ここは明石からちょっと離れています。この場所を明石とするにはちょっと無理がありそうです。<br><br>あと、いくら漁師とは言え人が乗っていると確認できる鹿を弓で撃つということはまず有り得ません。鹿の負担も考えれば、実はこの男神雄岡は遠くから確認できないくらい小さな神だったのではないかとも想像されます。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>猿田彦命は大きな鳥だったという説</title>
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    <pubDate>Thu, 04 Feb 2021 21:00:08 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[さて、この天照大神の身長を調べていたら、天照大神の命により地上に降り立った神の道案内をしたとされる猿田彦という神(天狗の原型とされている)が、鼻の長さは七咫(約126cm)、身長は七尺(約210cm)と記述があります。えっ、、、、体の半分の長さが鼻????? そんなあほな。。。。。ともう少し詳しく調べてみることにしました。<br><br>そこでこういう記事を発見しました。<br>引用：<div><blockquote>大麻山（徳島県鳴門市）<br>猿田彦大神＝魏使説<br><a href="https://yama4.web.fc2.com/oasa/saruta.html" rel="external">https://yama4.web.fc2.com/oasa/saruta.html</a><br>日本書紀<br>「一の神有りて、天八達之衢に居り。其の鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余り。当に七尋と言ふべし。且口尻明り耀れり。眼は八咫鏡の如くして、てりかがやけること赤酸醤に似れり」<br>（鼻の長さ七咫(ナナアタ＝約1.2m)もあり、背の丈は七尺(約2.1m)あまりで、身長は七尋(ナナヒロ＝約12.6m)近く。しかも、口と尻は明るく光っていて、目は八咫鏡のように円く大きく、真っ赤なホオズキのように照り輝いている。）<br></blockquote></div><br>咫=約18cm、寸=約30.303mm、尺=約30.303cm、尋=6尺=約1.81m<br>尺度の基準は時代が新しくなるにつれて長くなるらしいのですが7割まで短くなったとしても異常に大きいのは否めません。鼻の長さが1.2m、背の丈を座高と考えて2.1mで、身長が12.6mとなると足の長さが10mでどう考えても天狗とは程遠い体形で宇宙人としか考えられない。<br> <br><b>猿田彦命は大きな鳥だったという説</b><br>ところが、殆どの人は神というイメージは、ほぼ人間の形をしているような先入観があります。そういう先入観を取り除くと、これは大きな鳥のようにも思えます。まず鼻の大きさは口ばし(1.2m)、背丈は胴体(2.1m)、身長は羽を広げた時の長さ(12.6m)と考えればまさにそのものなのです。<br>引用：<div><blockquote>八咫鏡-Wikipedia<br>一般に「八咫（やた）」は「八十萬神」「八尋大熊鰐」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、・・・・<br></blockquote></div><br>上記のことから「眼は八咫鏡の如く」というのは単に眼が大きいことを表しているのではないのでしょうか。こう考えれば辻褄が合うような気がします。<br> <br><b>天照大神の性別</b><br>天照大神の身長を調べていた時に気付いたことがもう1点、天照大神が洞窟に籠った時に「天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。」とあり、天宇受賣命は女性で、その踊りが気になった天照大神は男性だったという説が見受けられました。しかし、これも神のイメージをほぼ人間として見る先入観からではないでしょうか？なぜなら神話では子孫は男女が交わることなく、男女の区別なくどちらからも生まれているからです。この世界では性別は意味がないのだと思います。しかし、現実的に裸踊りで大爆笑させてくれる芸人っていますよね。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>Re: 本当の天岩戸とはどこか?</title>
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    <pubDate>Thu, 04 Feb 2021 15:26:27 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[いつもありがとうございます。毎週淡路島先山の近くまで農業に行っていますのでとても先山の岩戸神社には愛着があります。<br> ]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>Re: 本当の天岩戸とはどこか?</title>
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    <pubDate>Mon, 01 Feb 2021 13:49:09 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[面白そうな話題ですね。<br>続編を期待しています]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>本当の天岩戸とはどこか?</title>
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    <pubDate>Mon, 01 Feb 2021 08:00:24 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[日本神話<br>古事記では弟の須佐之男の命の乱暴が原因で天照大神が岩戸に籠り、闇となったという天岩戸にまつわる日本神話があります。<br>引用：<div><blockquote>天岩戸 -Wikipedia <a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8&lt;br" rel="external">https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8&lt;br</a> /&gt;<br>天宇受賣命が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。岩戸神楽ノ起顕（三代豊国）これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大御神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。すぐに布刀玉命が注連縄を岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。こうして天照大御神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。<br></blockquote></div><br>それではこの岩戸とされるのは一体どこなのでしょうかという疑問が湧いてきました。国内にはこの天岩戸とされる場所が下記のように複数あります。<br><br> <br><b>天岩戸の場所の特定</b><br>引用：<div><blockquote>天岩戸 -Wikipedia<br>天の岩戸<br>・滋賀県米原市弥高 - 平野神社。<br>・京都府福知山市大江町 - 皇大神宮（元伊勢内宮）、岩戸神社。<br>・滋賀県高島市 白鬚神社 - 岩戸社。<br>・奈良県橿原市 「天岩戸神社」 - 天香久山の南麓。<br>・三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 - 「高倉山古墳」。昭和時代に入山が禁止された。<br>・三重県伊勢市二見町二見興玉神社 - 「天の岩屋」<br>・三重県志摩市磯部町恵利原 - 恵利原の水穴<br>・岐阜県各務原市「手力雄神社」「史跡めぐり」<br>・兵庫県洲本市安乎町 - 岩戸川の河口北。<br>・兵庫県洲本市先山 - 岩戸神社。<br>・岡山県真庭市蒜山 - 茅部神社の山の上方。<br>・徳島県美馬郡つるぎ町 - 天の岩戸神社の神域にある。<br>・山口県山口市秋穂二島岩屋 - 塩作りの海人の在住地、防府市の玉祖命の神社に近い。<br>・宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 - 天岩戸神社の神域にある。同神社西本宮の背後、岩戸川を挟んだ対岸の岸壁にあり、社務所に申し込めば案内付きで遥拝所へ通してくれる。周辺には天安河原など、日本神話、特に岩戸隠れ神話にまつわる地名が多く存在する。<br>・沖縄県島尻郡伊平屋村「クマヤ洞窟」 - 全国に数多ある「天の岩戸伝説」の中で最南端地。<br>・岐阜県高山市 - 位山。<br></blockquote></div><br><br>これを元にGoogleMapで１つ１つ調べてみました。1か所だけ良くわからなかった場所が山口県の玉祖命の神社の近くにあるという天岩戸でしたが、多分「玉岩屋」というところではないでしょうか。<br>引用：<div><blockquote>やまぐちビューなび<br><a href="http://y-view-navi.jp/spot/0023.html" rel="external">http://y-view-navi.jp/spot/0023.html</a><br>周防一の宮の玉祖神社。玉岩屋は玉祖命(たまのいわやのみこと)のお墓。 玉祖命とは、天岩戸(あまのいわと)開きのおり、三種の神器のひとつの八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を造ったとされ、玉造部の祖神である。邇邇芸命(ににぎのみこと)の降臨に従った五神の１柱。眼鏡・カメラ・時計・宝石などの守護神とされている。<br></blockquote></div><br>あと、三重県「高倉山古墳」については入山禁止の為よくわかりませんでした。<br>ソロツーリングで行ったことがある場所で宮崎県高千穂にある天岩戸神社で有料ながらも拝見させていただいたことがあります。しかし、その時、岩ではあるものの岩戸という意味ではなんとなく違うような気がした記憶があります。また、滋賀県高島市の白鬚神社の岩戸社は岩を神体にしてはいますが周りが古墳群だったので違うような気がします。もう１つ兵庫県淡路島の先山にある岩戸神社であまり参拝客もなく本当に小さな神社で岩が2枚になっていてなんとなく雰囲気があります。<br> <br><b>神話の有力な場所</b><br>そもそも天照大神は国土創生の神である伊弉諾、伊弉冉の神の子供で女神とされています。そして国土創生として日本で最初に造られたのが淡路島とされています。つまり、淡路島近辺に天岩戸があって然るべしとも想像されます。このことから有力なのは淡路島先山の岩戸神社(ソロツーリングで行った場所の1つ)、兵庫県洲本市安乎町平安浦の「岩戸神社跡」、もともと淡路島は徳島県であった過去もあり、徳島県美馬郡つるぎ町の「天磐戸神社」です。<br> <br><b>天照大神の背丈は</b><br>大神の背丈ですが、日諱貴本紀によると六尺六寸(約2m)とされているようです。ただ、尺度は時代によって違うようです。古代の一番短い尺度で1尺20cmとしても身長が約132cmとなります。でも、この日諱貴本紀って何なのだろう。日本書紀、古事記とはどう違うのでしょうねぇ。どれくらい信憑性があるのかよくわかりません。<br>引用：<div><blockquote>尺-Wikipedia<br>中国の尺<br>古代の1尺の長さは正確にはわからないが、出土文物からの推測では、戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。文献によると周の尺はその8割ほどの長さ（約20cm）であった<br></blockquote></div><br>この天照大神の背丈について神話から想像してみると、洞窟から天照大神が少し岩戸を開けて覗くというくだりで天児屋命と布刀玉命が差し出したとされる八咫鏡は直径約46cmの円形の鏡です。仮に2mもある全身を鏡に映そうとするならばかなり離れていなければなりません。離れすぎると鏡ということがすぐに分ってこの作戦は失敗に終わってしまうでしょう。差し出すという行為も含めて近くで分らないようにこの鏡を利用するのであれば身長は46cm以下でなくてはなりません。すなわち、天照大神の背丈はとても小さかったのではないかと想像されます。ひょっとしたらピーターパンに出てくるティンカーベルのような大きさだったかもしれません。<br> <br><b>本当の天岩戸は</b><br>これに伴い、岩戸自体の大きさも小さかったのではないかと推測されます。これにあてはまる岩戸は淡路島先山の岩戸神社ではないでしょうか。2枚岩の間に子供が入れることのできる穴があり(確認はしていませんが)、さらに岩の前にはちょっとした広場があります。かなり濃厚だと想像してしまいます。<br><br>いつか、ソロツーリングでこの神話の有力な場所の1つである徳島県美馬郡つるぎ町の「天磐戸神社」にも行ってみたいですねぇ。<br> ]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>アイヌは先住民族ではない</title>
    <link>https://www.onwil.com/modules/wilforum/index.php?post_id=634</link>
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    <pubDate>Fri, 23 Oct 2020 17:22:13 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[この度10月初旬の能登ツーリングで偶然立ち寄った石川県七尾市須曽町にある「須曽蝦夷穴古墳」(築造年代は７世紀中頃)で、蝦夷穴という名称が気になり、これについて調べてみました。蝦夷というとすぐに北海道のアイヌを連想してしまうのですが、蝦夷穴という名称にはなっているもののアイヌとの深い関連はないようです。寧ろ、後世に、推測で付けられた名称のようです。<br>引用：<div><blockquote>蝦夷穴 --ウィキペディア（Wikipedia）より<br>蝦夷穴（えぞあな）は、崖の中腹にある横穴の呼び名で、東北地方南部から関東地方・中部地方に分布する。エゾ穴とも書く。実態は古墳時代から奈良時代にかけて作られた古墳の横穴式石室か横穴墓で、蝦夷が作ったものではない。<br>蝦夷穴は、蝦夷（エゾ）すなわちアイヌの住居跡の意味である。だが、蝦夷は古い時代にはエミシかエビスと呼び、エゾという呼び方が生まれたのは蝦夷穴分布域で蝦夷が姿を消した後の平安時代後期以降であった。蝦夷穴はエゾ穴であって、エミシ穴、エビス穴とは言わないので、これ以降の名である。積極的証拠はないが、江戸時代あたりに付けられた名かという。遺跡の性格も、同じ地域・他地域の他の古墳・横穴墓と比べて異質なものではなく、蝦夷穴をエミシやエゾにあてることはできない。古墳・横穴墓に関する知識が失われた後世に、推測で付けられた呼び名である。明治時代の考古学では坪井正五郎が住居説を唱えたことがあったが、現在は横穴墓ということで異論はない<br></blockquote></div><br>それでは北海道に同じような時代に古墳は発見されていないのかと検索してみると江別古墳(1931年に発見に 後藤寿一によって発見された)というものが検索結果に出てきました。<br>引用：<div><blockquote>江別古墳群 --ウィキペディア（Wikipedia）より<br>江別古墳群（えべつこふんぐん）は、北海道江別市にある群集墳である。国の史跡に指定されている。日本にあるものの中では最も北に位置する古墳として知られる。<br>古墳時代に古墳が盛んに造られたのは畿内を中心として九州南部から東北南部にかけての一帯であるが、北海道内にもわずかながら古墳は現存している。ただし、それは古墳時代（3世紀-6世紀）のものではなく、蝦夷征討の盛んに行われた飛鳥時代、奈良時代、平安時代前半すなわち律令時代に築造され、当時この地域で栄えていたといわれる擦文文化前半の時期に相当する。北海道の古墳で、現在発見されているのは恵庭市・江別市および札幌市においてであり、なかでも江別古墳群は最北端に位置している。<br></blockquote></div><br>ひょっとしたらまだ発見されていない古墳がまだあるかもしれませんが擦文時代(7世紀ごろから13世紀)の前半に北海道においてこの江別古墳が存在し、古墳から出土した遺物には本州からもたらされたと思われる須恵器、鉄鏃、刀子、鋤先などがあったとされています。ということは本州と同様、権力者が存在していたことになります。つまりアイヌ文化が発生したとされる13世紀よりもさらに古い時代にすでに大和民族が統治していたということになります。単純に考えれば本当の先住民族は大和民族ということになります。<br><br>北海道の地名には良くアイヌ語が使われています。これは13世紀には大和民族に代わってアイヌ民族が北海道で広く大きな権力を持ったと考えたほうが自然だと思います。アイヌ民族は北海道の先住民ではないとしても、その時代に生きる多くの人にアイヌ文化が受け入れられたことは事実だと思います。<br><br> ]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>古墳に引き寄せられて</title>
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    <pubDate>Thu, 15 Oct 2020 07:36:59 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[今回の能登ソロツーリングで看板を見て急遽立ち寄った場所に古墳がありました。特に目的地としていたわけではなく引き寄せられた感があります。石川県能登島にある「須曽蝦夷穴古墳 」と滋賀県琵琶湖西沿いにある「白髭神社」の一番上にある岩戸社です。どちらも石室があり、海(湖)が見渡せる静寂な場所に造られています。これらの場所でなぜか気持ちが落ち着くのは立地条件のせいなのでしょうか。それともなんらかの受け継いだＤＮＡが存在するからでしょうか。不思議な感覚がします。また、造られた当時は草木の成長がなかった分見晴らしも良く、自動車の騒音もないので今よりもっと環境が良かったかもしれません。<br><br>そもそも古墳は3世紀中ごろから7世紀にかけて造られた墓です。1300年以上も前に造られた古墳(墓)が現存するって改めてすごいことだと思います。考えてみれば、現在多くの人が建てている墓というものが今後1300年もそのまま維持されるかというと、とてもそうは思えません。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>恋路海岸物語</title>
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    <description></description>
    <pubDate>Sat, 10 Oct 2020 21:05:30 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[石川県能登の恋路海岸にてこんな看板がありました。<br>引用：<div><blockquote>恋路海岸 能登町<br>源平合戦の頃、木郎の里の助三郎と、多田の里の鍋乃は人目を忍んでこの浜で逢瀬を重ねていた。暗い夜、鍋乃のともす灯は助三郎の唯一の目標であり、愛し合う二人の希望の灯でもあった。<br>鍋乃に思いを寄せるもう一人の男源次は、二人の仲を妬み、灯を崖のはずれに移してだまし、助三郎は深い海から帰らぬ人となり、鍋乃も源次の求愛をしりぞけ、海に身を投げ助三郎のあとを追った。<br>過ちを悔いた源次は、仏弟子となって二人の菩薩を弔いつつ諸国を修行し、時を経て故郷の丘の上の観音堂に帰ってきた。愛欲、嫉妬に苦しんだ若き日々を省み、男女の仲を取り持つこともあったので、いつしか縁結びの観音堂といわれ、参詣する二人は必ず結ばれると伝えられるようになった。<br>こうした悲しくも美しい物語によって、いつの頃からか、この地が「恋路」と呼ばれるようになったと伝えられている。<br></blockquote></div><br>このストーリーを見て少し疑問が湧いてきました。<br>・源次が灯を崖のはずれに移してとありますが、近くに崖が見当たらないんだけどなぁ。？？？<br>・この観音堂とは一体何処なんだろう？鳥居のある所なのかな？？<br><br> ]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>平家に非ずんば人に非ず</title>
    <link>https://www.onwil.com/modules/wilforum/index.php?post_id=631</link>
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    <description></description>
    <pubDate>Sat, 10 Oct 2020 20:31:44 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[石川県、能登半島の曽々木海岸にある窓岩ポケットパークというところに「能登平家の郷」と題した看板がありました。パッと見た瞬間、また平家の落ち武者がここまで来ているのかと思いきや、そうではなく、平清盛の妻、時子の弟にあたるこの時忠がの壇ノ浦の戦いで捕虜になりこの奥能登へ流刑となったものの、親平氏貴族の働きかけにより、良き待遇で暮らしたと記されています。この能登で生まれた時忠の子、時国の屋敷が現在、国の重要文化財になっているという話です。<br><br>そもそも源平合戦の原因となるものは天皇の皇位継承問題に端を発するようです。一時的に平家が権力を握ったもののその後源氏に徹底的に滅ぼされています。<br><br>さて、平家が栄華を極めていた時代、時忠はこんな言葉を残しています。<br>引用：<div><blockquote>平家に非(あら)ずんば人に非(あら)ず<br></blockquote></div><br>平家という部分を別の単語に置き換えて引用しているのを聞いたことがあります。これって、もともとはこの時忠の言葉だったのですね。時代錯誤もいいところです。カッコイイと思ってこの言葉を引用したのかもしれませんが、この時代の結末から考えればその驕りによって滅ぼされる、つまり破滅するということを意味しているのです。<br><br> ]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>Re: 兵庫県 明石と宮本武蔵</title>
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    <pubDate>Fri, 07 Jun 2019 08:07:09 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[どちらかというと戦国の武将、剣豪というイメージが強い宮本武蔵ですが、1619年宮本武蔵が36才の時、明石城築城と同時に町割り（区画整理）を行い、また意外と庭師としての作品も明石駅近くに残しています。さすがに城主から依頼された明石公園内にある庭園は広く、それ以外はそれぞれの寺から依頼されたものと思われどれもこじんまりとしたものです。五輪書（兵法の書物）以外にも作庭方法の書なども残しても良かったのではと思ったりします。<br><br><a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_sp/index.php?lid=196" rel="external">明石公園内</a><br>宮本武蔵が初代明石城主小笠原忠政（忠真）の命を受け城の西に遊興所（樹木屋敷）として作庭したものです。現在の庭は大正11年の明石公園大拡張工事の際城の南に移設されたものを復元したものです。<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/garden1.jpg"  data-title="明石公園内の作庭" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/resize/garden1.jpg" alt="" /></a> <br><br>以下規模は小さいものの宮本武蔵が作庭したものとされています。ただし、1945年に明石空襲の被害を受けているのでどれだけ再現したのかは定かではありません。<br><a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_sp/index.php?lid=203" rel="external">雲晴寺</a>　枯池枯山水<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/garden2.jpg"  data-title="雲晴寺の作庭" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/resize/garden2.jpg" alt="" /></a> <br><br><a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_sp/index.php?lid=215" rel="external">圓珠院</a><br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/garden3.jpg"  data-title="圓珠院の作庭" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/resize/garden3.jpg" alt="" /></a> <br><br><a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_sp/index.php?lid=197" rel="external">本松寺</a>　枯池枯山水（残念ながら一般公開はしていないようです。）<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/garden4.jpg"  data-title="本松寺の作庭" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/musashi/resize/garden4.jpg" alt="" /></a> <br><br><br>]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>源氏物語の魅力</title>
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    <pubDate>Sat, 11 May 2019 07:34:24 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[平安時代の作家、紫式部が書いた世界最古の長編ロマン「源氏物語」の「明石の巻（兵庫県明石市、神戸市）」の中で主人公光源氏と明石の上の君とのロマンが描かれています。光源氏は<a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_sp/index.php?lid=212" rel="external">無量光寺</a>の前、善楽寺の「浜辺の舘」から約7㎞北にある明石の上の君の住む<a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_onwil/index.php?lid=561" rel="external">地蔵禅院</a>の「岡辺の舘」まで通ったとされています。<br><br>さて、この物語の登場人物は架空人物とされています。しかし、この明石の上の君の父親とされる明石人道なる人物はひょっとしたら実在していたのかも知れない。というのも地蔵禅院で尋ねた所、この人物を祀り、寺も屋敷を譲り受けたものでこの辺りの土地を持っていたそうです。過剰に想像すれば、少なくとも「浜辺の舘」から「岡辺の舘」までの7㎞の間の土地を所有していた、あるいはこの土地の権力者であったのではないだろうかと勝手に想像してしまいます。<br><br>この物語が千年経った現在も大衆に忘れられずに魅力を感じるのは登場人物が全くの架空ではなく実在感を匂わせるところではないでしょうか。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>Re: 台湾の金門島へ行ってみて</title>
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    <pubDate>Sat, 07 Apr 2018 07:22:25 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[金門島についての追加です。前回に島の人が外地で成功し戻って家を建てた後教育に力を入れたとの記載をしましたが、確かにこの島では教育に力を入れているのかもしれません。というのもゲストハウス近くの<a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_kaigai/index.php?lid=465" rel="external">古寧国民小学校</a>では、日本の小学校と違い中庭が広く、電光掲示板で卓球で良い成績の人を取り上げたり、運動場も広いトラックがあるなど教育環境の良い現場になっています。<br><br>また、内紛の最前線となった地域ということもあるのでしょうか。廊下には「戦争無情　和平無價　中国人的覚醒」と掲示されています。「戦争無情　和平無價」は「平和が何より大事だから、戦争などはやめよう。」との解釈で、「中国人的覚醒」という解釈は「台湾の人も中国の人も同じ先祖を共有する中国人だから、それを意識して（覚醒して）、仲良くしましょう。」の意味かもしれないということです。人によってはこの中国人というのは共産党の事と解釈する人もいます。この島ならではの切実な願いが現れているようにも思います。]]></content:encoded>
  </item>
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    <title>台湾の金門島へ行ってみて</title>
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    <pubDate>Mon, 26 Mar 2018 20:10:24 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[台湾から飛行機で1時間、中国に最も近い島、金門島が台湾領だということは日本では意外とあまり知られていません。この金門島へ行ってみて最初に感じたことは戦争の記録の島だということです。島内には戦車、機関銃、兵士のマネキン、戦争の記念館、墓所等があります。台湾の歴史はかなり複雑です。<br><br>日本の敗戦（1945年）後、日本の植民地であった台湾本土を中国に返還した際、もともと台湾の地に住んでいた人達と蒋介石が大陸から送り込んだ台湾を統治するための人達との紛争があったり、また日本の植民地の対象外であったここ金門島でも蒋介石率いる台湾国民党と毛沢東率いる中国共産党の中国内紛の最終的な最前線であったという歴史があります。そのせいか、ここ金門島の海岸では上陸を阻止するため瓶を割ったものや杭を立ててあったり、今は撤去されているようですが地雷などもあったようです。島内には国民党のマークが付いた戦車、旗などが揚げられていることからもわかるように蒋介石がこの内紛で勝利を収め現在も台湾の統治下にあります。&lt;br /&gt;<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/kinmon1.jpg"  data-title="海岸に設置されている杭" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/resize/kinmon1.jpg" alt="" /></a> <a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/kinmon2.jpg"  data-title="戦車にも国民党のマーク" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/resize/kinmon2.jpg" alt="" /></a><br><br>実はこの蒋介石率いる台湾が勝利した裏には公にはされていないようですが、日本人（根本博）の活躍があったとされています。終戦後、密航までして台湾に渡り、蒋介石に義を尽くし、アメリカと戦ったノウハウを生かしてこの金門島で指揮を執ったようです。所謂戦争のプロですよね。なぜそこまでしたかという理由ですが、日本が敗戦したときに蒋介石に多くの日本人の帰国に配慮をしてもらったことと、もともと顔合わせしていた蒋介石と平和思想が似ていたからだそうです。どこまで事実かは分かりませんが十分有り得る話だと思います。&lt;br /&gt;<br><a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A" target="_blank" rel="noopener">Wikipedia根本博</a><br><br>金門島の横にある小さな島はさらに中国に近い島で小金門島と呼ばれています。現在軍の施設、多くの軍人が働いているようです。というのも金門島からフェリーに乗るとき軍人の料金が半額となっていてそれだけの需要があるということだと思われます。<br><br>この小金門島ツーリングしているときにいつの間にか観光コースから外れ、こんなところにレストランがあると思ってよく見てみると兵士のヘルメットが見えたのです。それまでの観光コースからまたマネキンなんだろうとカメラを手にしたとたん笛を吹かれ、何か叫ばれました。マネキンではないことは分かりましたが日本語しかわからない私には意味不明で取り合えず引き返すことにしました。<br><br>これは全く私の予備知識不足で、台湾では軍事施設の撮影は禁止とされています。日本と違いこの点には十分留意する必要があります。因みに金門島では高梁酒が名産ですが、包丁も名産です。飛んできた砲弾を原料に包丁を作ったそうです。実に逞しいと思います。また、地元でとれた豆を原料にしたお菓子も名産です。<br><br>さて、金門島でもう一つ興味を持ったのが（金門島夜のガイドツアーより）戦争よりもっと前の清朝時代の歴史です。金門島は島国でほとんどこれといった産業がなかった為、島の人たちは外地へ出稼ぎに行き、成功した人が外地の技術とともに地元に帰って最初に家を建てたそうです。その中に洋館があります。金門島で最も大きな洋館、陳景蘭洋楼もその一つです。家を建てた後は、次には先祖を祀り、最後に教育に力を入れたそうです。外地での出稼ぎで教育の重要性を痛感したのだと思われます。<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/kinmon3.jpg"  data-title="陳景蘭洋楼" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/resize/kinmon3.jpg" alt="" /></a><br><br>また、金門島には多くの寺のようなものがあります。金門島夜のツアーでのガイドさんの説明によると、これは家の祖先を祀るものと一般的な寺と二種類あり 屋根にある龍の飾りが<br>龍が内向き（赤）→神様を祀る「宮廟」<br>龍が外向き（黒）→祖先を祀る「家廟」<br>と区別されるようです。さらに、内向き龍の間に3つの人形が飾られていることがあります。これは、福・禄・寿、すなわち、幸せ/幸運・給料/お金・寿命/健康を表すものだそうです。<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/kinmon4.jpg"  data-title="寺の屋根の人形" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/wilforum/taiwan/resize/kinmon4.jpg" alt="" /></a><br><br>あと、位の高い人と関係がある建造物にはこのような刻印があります。<br><a href="https://www.onwil.com/uploads/gnavi_kaigai/taiwan/highlevel.jpg"  data-title="由緒ある刻印" data-lightbox="" target="_blank"><img src="https://www.onwil.com/uploads/gnavi_kaigai/taiwan/resize/highlevel.jpg" alt="" /></a><br><br>外地に出て成功を収め故郷に錦を飾るという事が元来中国人の気質のような気がします。ある意味、蒋介石も毛沢東もその中の1人なのかも知れませんね。]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>明石空襲の碑に思うこと</title>
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    <pubDate>Thu, 15 Feb 2018 10:46:41 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[最近、地元の人から戦時中(昭和20年)に空襲で明石公園に避難した人が被災し大勢亡くなり碑が建てられているということ聞きました。確かに明石公園内に<b><a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_sp/index.php?lid=209" rel="external">「明石空襲の碑」</a></b>として建てられています。実際空襲は昭和20年に5回も受け、川崎航空機明石工場を狙ったものとされ、最終的には市の中心部6割3分が消失しています。川崎の工場から明石市中心部まで約2キロ。個人的な見解ですが、軍需工場を狙ったというものの一般人を巻き込みここまでする必要性があったのか疑問に思います。<br><b><a href="http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kinki_10.html" target="_blank" rel="noopener">明石市における戦災の状況（兵庫県）</a></b><br><br>また下記の証言ではその詳細が記されています。<br><b><a href="https://www.city.akashi.lg.jp/shise/koho/kohoakashi/h25/0815kuusyutaiken.html" target="_blank" rel="noopener">広報あかし 平成25年（2013年）8月15日　空襲体験者が語る「明石の空襲」</a></b><br><br>この中で、驚いたことに「パイロットの顔がはっきりと見えるほど近くから、容赦ない機銃掃射（銃撃）を受けました。」と記載されています。明らかに一般人を狙ったものだということになります。最近でもアメリカでは銃乱射事件で一般人が被害に遭うことがあります。ただ、これを容認する人は殆どいないでしょう。しかし、常軌を逸した状態の戦争という場面では容認されてしまうのです。<br><br>よく聞かれる言葉ですが「あなたの息子を戦争に取られても良いのですか?」と問いかける人がいます。もし戦争を想定しての言葉であれば、この事は悲惨な戦争全体の一部だけを切り取って自分の都合の良いように誘導する姑息な詭弁だと思います。なぜなら実際戦争になれば上記のように自分の大切な家族、親戚、友人、家、財産、生活もすべて失ってしまうからです。本当に考えなければならないことは大切なものを守る為に、具体的にどうやって戦争を回避するのかということです。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>大分県　ガニ伝説</title>
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    <pubDate>Wed, 31 Jan 2018 06:31:52 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[以前大分県竹田市直入町にある長湯温泉へ訪れた時に見つけた伝説です。<a href="https://www.onwil.com/modules/gnavi_onwil/index.php?lid=229" rel="external">大分県 長湯温泉</a><br>引用：<div><blockquote>ガニ伝説（直入町） 昔、長湯温泉を流れる川にガニがいた。ある日ガニは色香の美しい村の娘に一目ぼれをしてしまった。そして人間になって娘を嫁にしたいと思うようになった。たまたまそんなガニの切ない思いを知った川のほとりにある寺の僧が「寺の鐘の音を百聞けば人に生まれ変わる」と言い聞かせた。そこで娘が湯あみに来たとき僧が鐘をつき、ガニは川の中からこれを聞いていた。 僧が鐘をつきながらふと娘に目をやると娘のあまりの美しさにこれまた一目ぼれ。鐘を九十九までついて「娘はおれがもらう」と言って娘に近づいたとたん、空がかきくもって大雨となり僧もガニも落雷にやられてしまった。しばらくして川の水が引いたところ、川の中にガニの形をした大岩が現れ、無数の泡をともなった湯が湧き出た。以来、村人たちはこれを（ガニ湯）と呼ぶようになった。<br></blockquote></div> ということは、想像するに、この罪作りな美女娘は雷の娘だったのではないでしょうか。。。]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>横浜工作船資料館を見て思うこと</title>
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    <pubDate>Tue, 17 Oct 2017 07:35:18 +0900</pubDate>
    <category>旅に関すること</category>
    <category>旅と歴史のフォーラム</category>
    <content:encoded><![CDATA[このほど横浜に行った際、海上保安庁の横に横浜工作船資料館があり入ってみました。横浜工作船資料館は平成13年12月22日に九州南西海域に不審船との交戦記録および船体を引き揚げ捜査した資料を公開しています。同船が北朝鮮の工作船であった疑いが濃いことが判明しました。<br><br>そもそもこの船の容疑は違法操業での取り締まりを行ったとのことで、外国船の領海侵入ではないようです。また、結果的には相手が発砲したことによる正当防衛であるということが基本で、憲法で定められたことを遵守しているということがわかります。結果的な容疑は海上保安官に対する殺人未遂罪等です。また、工作船の弾が貫通した跡を見ると見事に船尾と船首に限られています。つまり日本の巡視船は相手の人命を尊重したことが伺われます。<br><br>しかし、逆に日本が漁業操業で少しでも相手国が主張する国境近くの領海に<br>すこしでも侵入すると即座に命を狙われてしまいます。例えば以前北海道で2006年8月16日ロシア国境警備局の警備艇により追跡され、貝殻島付近で銃撃・拿捕され、乗組員1人が死亡する<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC31%E5%90%89%E9%80%B2%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6" target="_blank" rel="noopener">第31吉進丸事件</a>、また、日本の領土とされている<a href="https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)" target="_blank" rel="noopener">竹島</a>においても韓国軍により日本人漁民が殺害されています。<br><br>一方日本への領海侵入に関しては非常に穏やかな対応をしています。上記の北朝鮮工作船も含め、例えば沖縄の尖閣諸島周辺に中国船が入っても威嚇すらすることはありません。記憶に新しいところで2010年日本の領海で日本の巡視船が中国の漁船に体当たりされても威嚇すらしていないという穏やかな対応です。戦争は絶対にしてはいけないことだと思いますが、少なくとも拉致も含め自国民をきっちり守れる体制にしてほしいと思うのは私だけでしょうか。]]></content:encoded>
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