長崎県 有馬キリシタン遺産記念館

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2015/5/6 12:12 投稿者:  タツ  (記事一覧)  [ 5585hit ]

有馬キリシタン遺産記念館
有馬キリシタン遺産記念館
館内
館内
展示室
展示室
 
さて、原城跡へ行く前の予備知識をここで仕入れておけば見る目も変わってくるというもの。ここ、有馬キリシタン遺産記念館へいくことにしました。しかし、看板があるものの場所が分からなくなって迷ってしまいました。迷いながらもどうにか到着。館内に入ると職員の人が案内をしてくれ、歴史の説明までして頂きました。

豊臣秀吉(1587年頃)~徳川家康の時代にかけて最初は国益もあり、キリスト教イエズス会からの布教を受け入れていたものの、イエズス会以外のキリスト教グループが流れてきたこと、キリスト教はその国を侵略するための1つの手段だと伝えられたこと。神社仏閣を破壊しだしたこと、日本人が宣教師を通して奴隷として人身売買されていたこと、などの理由から弾圧が徐々に厳しくなり徳川時代にはキリスト教は完全に否定されるまでになっていました。

原城に天草四郎が籠城し、徳川幕府と戦ったという島原の乱(1637年12月11日~1638年4月12日)はあまりにも有名です。発端は不作と年貢の取り立てが厳しかったことが大きな原因だとされています。宗教戦争という向きもありますが、キリスト教以外の農民も含まれていたことから一揆ととらえるのが正しいのかもしれません。

総大将、天草四郎はまだ今でいう高校生の年齢です。私は天草四郎が実際に3万7千の人間を動かしたとはとても思えません。なぜなら敵が攻めてきたときの戦略などは経験者でないと対処できないからです。つまり悪い言い方をすると周りの首謀者にうまく利用されていたと言っても過言ではないでしょう。その中には徳川幕府によって1612年5月7日処刑されたキリシタン大名有馬晴信の若い家臣で、これをきっかけに武士を廃業し農業をしていた者たちが加勢し、首謀者となっていたとしてもおかしくはありません。

また、原城でそのまま籠城が続けば餓死するのは目に見えているはずです。何が餓死寸前まで人々を頑張らせたか?? キリスト教だから頑張れたという類のものではありません。なぜなら城内はキリスト教徒ばかりではなかったからです。これは籠城の先にはキリスト教の援軍が来るという希望を持っていたからではないかとも考えられています。幕府もこのことが分かっていて、この希望を潰すべくオランダ船から原城に向かって砲撃させたとされています。まさに心が折れる場面です。

想像ですが、天草四郎の関係者はきっとこの件で長崎で外国キリスト教関係者と接触しようとしたに違いありません。ひょっとしたらそれも幕府に見抜かれ阻止されていたかも知れません。 もし、この時点で外国キリスト教の援軍が加勢していたら日本の国は大きく変わっていたと思います。また、外国のキリスト教がこのことを知っていて動かなかったとしたら当時外国にとって日本という国に魅力がなかったかあるいは恐れていたかのどちらかでしょう。

関連記事: 旅と気ままなフォーラム 島原の乱
 
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