南京事件どちらに信憑性が?

  • このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
  • このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー




前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2023/6/2 10:20 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2403 オンライン
作家・百田尚樹さんの「日本国紀」(幻冬舎)の「南京大虐殺」否定論の証拠の1つについて毎日新聞と産経新聞で真逆の論調記事があり、どちらに信憑性があるのかという疑問を感じトピック投稿することにしました。

「南京大虐殺」否定論の証拠の1つとは、1937年12月の南京事件を最初に大きく世界に広めたと言われているオーストラリア人のティンパリーについて工作員だったかどうかの論争です。

毎日新聞
引用:
「日本国紀」読者こそ読んでほしい 「南京大虐殺はウソ」論を検証  2022/3/6 https://mainichi.jp/articles/20220304/k00/00m/040/434000c
否定論の「証拠」
 ①南京大虐殺は中国国民党が宣伝した事件で、<「南京大虐殺」を世界で最初に伝えたとされ>、事件をまとめた本「戦争とは何か」を出した豪人記者、ティンパーリは<実は月1000ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明しています>(194~195ページ)
 ②世界に先駆けて事件を報じたニューヨーク・タイムズのダーディン、シカゴ・デーリー・ニューズのスティールの両記者は<南京陥落直後に南京から離れています(つまり伝聞)>(195ページ)

↓反論

誘導、誤りの数々
「最初から間違えています。②で詳述しますが、南京事件を最初に伝えたのはティンパーリではありません。また彼が中国国民党の宣伝工作として本を出したという説は、何度も否定された話です。繰り返せば、本の刊行は38年ですが、彼が国民党の顧問になるのは翌39年です。そもそも本は日本軍の暴虐に怒ったティンパーリが、事件を目撃した外国人の日記類や安全区の文書などをまとめたものですが、百田氏は宣伝工作のために本を出したように誘導した。ティンパーリの名誉をも毀損(きそん)しています」
 豪州在住のティンパーリ家の親族の協力を受けつつ、原資料を調べて「工作説」を否定した歴史研究者、渡辺久志さんの連載(季刊「中帰連」02年夏~03年春号)が最も詳しい。国会図書館などで読める。
次は②だ。「南京陥落は37年12月13日ですが、両記者は15日に南京を脱出するまで日本軍の暴虐を自分で見聞きして報じました。<伝聞>とはひどいウソです」

これに対し
 
産経新聞
引用:
「南京事件」世界に広めた豪人記者、国民党宣伝機関で活動 台北の史料で判明 2015/4/16 https://www.sankei.com/article/20150416-SDJ6FZRDNFJATA4KNRAVZUUM6U/2/
【台北=田中靖人】「南京事件」(1937年)を世界に広め、極東国際軍事裁判(東京裁判)にも影響を与えたとされる『戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)』(38年出版)の著者、ハロルド・ティンパリーが日中戦争勃発後の39年、中国国民党宣伝機関の英国支部で責任者を務めていたことを示す史料が、台北市にある国民党の党史館で見つかった。国民党の宣伝工作に関わったティンパリーの詳しい活動実態が明らかになったのは初めて。・・・・・・・
史料はティンパリーの工作内容に関して(1)英国政府要人と国会議員に面会し、「わが抗戦、建国の真意を伝える」(2)5月に英国各地で講演(3)6月に訪米し講演(4)専門書1冊を執筆-などと具体的に記している。
 これに先立つ37年、ティンパリーが国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも、産経新聞が入手した米コーネル大図書館所蔵の史料から分かった。
 国際宣伝処長の曽虚白は『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と自伝で語っていた。今回明らかになった史料は「南京事件」をめぐる論争にも影響を与えそうだ。

また、
引用:
「南京大虐殺30万人説」 日本にも歴史〝ねじ曲げ〟放置した重い責任 元兵士証言から浮かぶ歴史の真実 2015/3/27 https://www.sankei.com/article/20150327-WBFXX3E65FNRPE4UGUSZPNAF5Y/
「城内に遺体はなかった」
 「城内は空っぽでした」。昭和12年12月13日の南京陥落後、南京城に入った城光宣(じょうこうせん)さん(99)に昨秋、城内の様子を尋ねた際の第一声だ。
 兵士はおろか、住民の姿さえいない無人地帯だったというのだ。住民たちは、欧米人らでつくる国際委員会が城内に設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいた。
 城さんは熊本で編成された陸軍第6師団歩兵第47連隊に所属する獣医務曹長。第6師団も加わった南京攻略戦の戦闘には直接参加していないが、戦闘部隊と行動をともにし、間近で様子を見てきた。南京は他地域と同様に外敵の侵入を防ぐ目的で周囲を堅固な城壁で囲まれていた。城内の面積は約40平方キロメートルと広大だった。・・・
中国が喧伝する「南京大虐殺30万人説」が事実ならば、当時は城内で日本軍による住民への虐殺や暴行、強姦が繰り広げられていたはず。そんな阿鼻叫喚の現場で、和やかに敵兵相手に商売をすることがあり得るだろうか。
 平成19年12月、東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」でも、8人の元将兵が同様の証言をしている。
 「敵兵は1人もおらず、城内はガランとして人影がなかった。100メートルほど行くと、1人の老婆が紙で作った手製の日の丸でわれわれを歓迎してくれた」(12年12月14日に入城し、すぐに城外で宿営した元陸軍第6師団歩兵第13連隊の伍長、古沢智氏)
 「入城して2~3日後、住民の姿をみかけるようになり、時計の修理のため時計屋を訪れた」「3回ほどサイドカーで城内をくまなく見て回ったが、遺体や虐殺の痕跡は目にしなかった」(12月16日に入城した元陸軍第16師団の獣医少尉、稲垣清氏)
 「12月14日ごろには(城内に)散髪屋や立ち食いそば屋など、早くも住民が商売を始めていた」(安全区で掃討・警備を担当した元陸軍第9師団歩兵第7連隊の伍長、喜多留治氏)

このオーストラリアの記者ティンパリーが中国(国民党)の工作員かどうかについて、毎日新聞では、研究者と称される渡辺久志氏の記事を根拠に否定しています。一方、産経新聞では台北市にある国民党の党史館で見つかった詳しい活動実態史料を根拠に国民党の宣伝工作に関わっていたこと、および米コーネル大図書館所蔵の史料を根拠に国民党側から月額1千ドルの活動費を得ていたことも分かったとしています。

また、産経新聞では8人の元将兵を含めた旧日本兵の証言を取り上げ南京城内はもぬけの殻だったとしています。

素朴な疑問
■外国人記者はたった1日か2日でこの広い城内外を回り取材し事実を把握できたのでしょうか。
記事内容からも世界に先駆けて事件を報じたとされるニューヨーク・タイムズのダーディン、シカゴ・デーリー・ニューズのスティールの外国人両記者は事件当日、欧米人らでつくる国際委員会が城内に設けた非武装中立地帯「安全区」に逃げ込んでいたものと想像されます。また、「南京陥落は37年12月13日ですが、両記者は15日に南京を脱出する」、「城内の面積は約40平方キロメートルと広大だった」(城内には飛行場もある)という記事内容から、この外国人両記者はたった1日か2日でこの広い城内外を回り取材し事実を把握できたのでしょうか。

■旧日本兵が証言するように南京城内はもぬけの殻だったとしたら、中国軍はいつどのような経路で撤収したのでしょうか。
wikiによると
引用:
12/9松井は、和平開城の勧告を飛行機で散布した。12/10午後1時まで待ったが軍使が姿を現さなかったため松井は総攻撃の命令を発した。12日午後、唐は蒋介石から撤退命令を受け各指揮官に夜6時から明朝6時までに南京を撤退するよう命じ、午後9時、唐は副指令羅卓英等とともに軍用小火艇で浦口に渡り脱出した。渡江しようとする中国軍とそれを阻止する部隊との間に同士討ちが始まり、多くの兵士はなんの目途もなく寒夜揚子江に逃げ入り、徒死するにいたった。
と書かれています。南京は揚子江方面以外の三方面を完全に日本軍に包囲されていたことから、撤退経路は揚子江を軍用艇で撤退するしかありません。それも12/12の午後6時から12時間以内ということになります。その軍用艇を使い指揮官が先に撤退すれば、指揮系統は無くなり残された多くの兵士が我先にと軍用艇に群がり混乱することは誰でも想像できます。そこで同士討ちをしていたということも想像できるでしょう。

南京事件の有無については論争が論争を呼び、何が事実なのかよくわからないというのが今の印象です。しかし、当時現場に居たという旧日本兵の証言というものは事実として正当に評価されるべきだと思います。
投票数:5 平均点:6.00



     条件検索へ

旅と気ままなフォーラム最新投稿

欲しい商品が必ず見つかるメジャーなネットショップ

ログイン

Facebook,RSSリンク表示

検索

アクセスカウンタ

今日 : 21
昨日 : 278
総計 : 1630759