兵庫県佐用町上月城と黒田官兵衛

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なし 兵庫県佐用町上月城と黒田官兵衛

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2021/8/3 4:35 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2402 オンライン
同じく上月城の登山口前には、織田軍と毛利軍の戦いの内容についてはほぼ同じですが、黒田官兵衛との関わり合いを説明している看板がありました。
引用:
上月城と黒田官兵衛
1577(天正五)年、天下統一を目指す織田信長勢は、西国の勇将毛利氏と対立していた。羽柴秀吉を大将とする織田勢は黒田官兵衛などの尽力もあって、播磨をほぼ手中に治めつつあった。播磨・備前・作州の三国に接する要所を治める上月城主(城主名は赤松政範・[赤松]七条・上月十郎[景貞]など諸説ある)は毛利に与(くみ)していたため、同年十一月、秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へ向かうこととなった。
佐用に攻め入った秀吉は、まず、黒田官兵衛・竹中半兵衛らに、上月城主に従う福原則尚(助就-スケナリとする書もある)が守る福原城(佐用城)への攻撃を命じ、壮絶な戦いの末、福原城は多くの犠牲を出して落城する。

勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始する。後の黒田家の記録で「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先陣を務めるが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍三千を得た上月側が攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続く。以後、三ヶ月にも及ぶ籠城戦を迎えるが、城中の謀反者により城主が斬殺されたとも伝えられている。「信長公記」や秀吉自身の文書によると、城内の家臣が降伏を申し出たが、秀吉はこれを許さず、十二月三日の総攻撃によりついに上月城は落城する。全ての城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な結末を迎えたと伝えられている。

上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩は想像を絶する。上月城主の妻の墓は九州・福岡に実在することから戦いの合間に縁者により救い出されたものと思われる。

その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿介らの尼子勢が入るが翌年四月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲される。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなる。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正六年七月に落城する。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とに挟まれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最後と共に歴史の表舞台に再び現れることはなかった。

平成二十五年 佐用町観光協会
※本文は伝承を基に作成されたものであり、書物によって諸説がございます。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。と親戚であったようです。この時、城内の女性は磔にされているにも関わらず、戦いの合間に縁者によって救い出されるとなっているという裏話があったようです。このことから縁故というものは昔から良いか悪いかは別にして強い絆があったことが伺えます。

 
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