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兵庫県佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦い

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2021/8/1 20:50 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2206
このたびのソロツーリングで、兵庫県佐用町にある上月城に登った時のこと、登山遊歩道手前にに次のような説明看板がありました。
引用:
上月城の沿革と攻防
上月城は、鎌倉時代末期(1300年代)に、上月次郎景盛(宇野播磨守入道山田則景の息)が太平山(樫山)に初めて築いたと伝えられている。
上月氏は景盛、盛忠、義景、景満と続くが、そのいづれかの時、本城を谷を隔てた南の荒神山に移したと思われる。これが現在の上月跡で、中世山城の様態をよく残している。
赤松氏は、播磨・備前・美作三ヵ国の守護など大きな勢力を持っていたが、嘉吉の乱(1441年)で総領家が没落することになり、播磨も山名氏の支配する所となる。その後、赤松政則が赤松氏を再興し播磨を回復するが、山名、赤松、尼子等が攻防を繰り返すこととなる。
天正五年(1577年)織田信長は毛利氏攻めの為、羽柴秀吉を総大将として播磨に入り、毛利氏に与(くみ)した佐用の福原城を攻略し、高倉山に本陣を置き一万五千の軍勢で上月城を包囲し、救援に駆けつけた宇喜多直家の軍を退け、十二月三日遂に上月城は落城、政範は自刃(じじん)して果てた。秀吉は、城中将士の首を悉くはねた上、見せしめの為、城中の女子子供二百人を串刺しと磔にして備前美作播磨の国境付近にさらした。
秀吉はこの後、上月城を尼子勝久、山中鹿助に守らしめた。上月城に入った尼子氏は一時、宇喜多勢に攻められ撤退し、宇喜多は之を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城したとされる。景貞は、敗退中櫛田の山中で自刃したと伝えられる。
再び、尼子勝久、山中鹿助は上月城に入ったが、毛利軍は山陰、山陽の両道より三万の軍勢を以て、天正六年(1578年)四月十八日、上月城を包囲した。秀吉は急ぎ救援の為、高倉山に陣を進めたが、三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。この為、上月城は孤立し遂に七月五日勝久は毛利氏に開城自刃した。山中鹿介は備中の毛利輝元の陣へ護送の途中、高梁川の合いの渡しで斬殺され、その果敢な生涯を終えた。
この天正年間の攻防が上月合戦と呼ばれるもので、上月城はその後、廃城となり今日に至っている。文政八年(1825年)赤松氏落城の時の守将の末裔大谷義晃が二五〇回忌を営み慰霊碑を建立したものが山上に残されている。
佐用町観光協会 上月歴史研究会


佐用町上月城での織田軍と毛利軍の戦いの経過を要約すると
  1. 1577年 織田軍豊臣秀吉が大将として近くの福原城を攻略後、十二月三日上月城を落城
  2. (この時全ての城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒される)
  3. 秀吉は尼子勝久、山中鹿助に城を守らせるが宇喜多勢に攻められ撤退
  4. 宇喜多は城を上月十郎景貞に守らしたが再び秀吉軍により落城(景貞は自刃)
  5. 再び秀吉は尼子勝久、山中鹿助に城を守らせる
  6. 1578年 四月十八日毛利軍が三万の軍勢を以て城を囲んだ。
  7. 秀吉は援軍一万の軍勢で高倉山に陣を進めたが三木城攻略の為、六月二十六日高倉山より兵を引いた。
  8. 七月五日秀吉の救援を絶たれ孤立した上月城を守っていた尼子勝久は自刃、山中鹿助は護送中斬殺
  9. 上月城廃城
ということになります。この看板で一番驚いたのは、1回目に秀吉により上月城が落城された後、「城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒した」ことです。改めて戦国時代とは実際そういうものだったのかと思ってしまいます。ただ、この戦いの最後には秀吉が援軍一万に対して毛利軍が三万にも及ぶ大群になったのはこの事が大きな波紋を呼んだのかもしれません。

結果的にこの戦いによって織田軍は天下統一がなされたわけでもなく(1582年6月21日本能寺の変で自害したとされる)、単に城を守る者が次々と犠牲になり上月城が廃城になっただけのように思うのです。
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2021/8/3 4:35
タツ  管理人   投稿数: 2206
同じく上月城の登山口前には、織田軍と毛利軍の戦いの内容についてはほぼ同じですが、黒田官兵衛との関わり合いを説明している看板がありました。
引用:
上月城と黒田官兵衛
1577(天正五)年、天下統一を目指す織田信長勢は、西国の勇将毛利氏と対立していた。羽柴秀吉を大将とする織田勢は黒田官兵衛などの尽力もあって、播磨をほぼ手中に治めつつあった。播磨・備前・作州の三国に接する要所を治める上月城主(城主名は赤松政範・[赤松]七条・上月十郎[景貞]など諸説ある)は毛利に与(くみ)していたため、同年十一月、秀吉率いる織田勢の矛先は佐用の地へ向かうこととなった。
佐用に攻め入った秀吉は、まず、黒田官兵衛・竹中半兵衛らに、上月城主に従う福原則尚(助就-スケナリとする書もある)が守る福原城(佐用城)への攻撃を命じ、壮絶な戦いの末、福原城は多くの犠牲を出して落城する。
勢いに乗る織田勢は、次に上月城への攻撃を開始する。後の黒田家の記録で「黒田家譜」によると、この戦いでは官兵衛が先陣を務めるが、毛利方の宇喜多直家率いる援軍三千を得た上月側が攻勢、官兵衛の隊も後日、山中鹿介をはじめとする尼子勢の援軍を得て両軍の攻防が続く。以後、三ヶ月にも及ぶ籠城戦を迎えるが、城中の謀反者により城主が斬殺されたとも伝えられている。「信長公記」や秀吉自身の文書によると、城内の家臣が降伏を申し出たが、秀吉はこれを許さず、十二月三日の総攻撃によりついに上月城は落城する。全ての城兵は斬首、また、城内に居た二百余人のうち女性は磔、子供は串刺しにされ国境に晒されるという凄惨な結末を迎えたと伝えられている。
上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。合戦では、先陣として落城の様子を間近に見た官兵衛の苦悩は想像を絶する。上月城主の妻の墓は九州・福岡に実在することから戦いの合間に縁者により救い出されたものと思われる。
その後、上月城には山陰の名族・尼子勝久、山中鹿介らの尼子勢が入るが翌年四月、三万にも及ぶ毛利の大群に攻められ城は包囲される。援軍に駆けつけた羽柴秀吉・荒木村重ら一万の織田勢は高倉山に陣を張り、対峙するも付け入ることもできず、時を同じくして反旗を翻した別所長治を討つため播州・三木城へと向かうこととなる。織田勢の撤退により、見捨てられた上月城は天正六年七月に落城する。信長と秀吉、西国の覇者毛利氏とに挟まれ、歴史の波に翻弄された上月城は、尼子氏の最後と共に歴史の表舞台に再び現れることはなかった。
平成二十五年 佐用町観光協会
※本文は伝承を基に作成されたものであり、書物によって諸説がございます。

上月城主の妻は、黒田官兵衛の妻・光(幸圓)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった。と親戚であったようです。この時、城内の女性は磔にされているにも関わらず、戦いの合間に縁者によって救い出されるとなっているという裏話があったようです。このことから縁故というものは昔から良いか悪いかは別にして強い絆があったことが伺えます。

 
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