バルト三国に残した共産主義国ソ連の爪痕

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なし バルト三国に残した共産主義国ソ連の爪痕

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2024/9/20 18:23
タツ  管理人   投稿数: 2428
さて、前記事で1940年代にソ連(現ロシア)がバルト三国を占領し、何人ぐらいをどのような基準でシベリアに強制連行したのかを知りたくて検索していると次のような記事が見つかりました。
引用:
灰色の地平線のかなたに 2012年8月12日 https://www.fben.jp/bookcolumn/2012/08/post_3353.php
1940年、ソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国を占領した。そして、反ソビエト的と考えられる人々の名簿をつくり、殺すか、刑務所へ送るか、シベリアに追放して重労働に従事させるかした。人口の3分の1もの人々が亡くなった。
 追放されたリトアニア人は、シベリアで10年から15年間を過ごした。1953年にスターリンが亡くなり、1956年ころまでに故郷に戻ることができた。しかし、故郷にはソ連の人々が住みついていた。そして、シベリアでの辛い経験を口外することは許されなかった。
1991年、ようやくバルト三国は独立を取り戻した。50年間もソ連の残酷な占領下にあった。
この記事を見ると共産主義というものは従わない者(反対する者)に対して暴力も排除しないということがよくわかります。バルト三国は人口の3分の1もの人々が亡くなったとあります。これはカンボジアで共産主義の毛沢東に傾倒したポル・ポトによる虐殺(1975年から1979年)で約200万人(全人口の1/2~1/3)が犠牲になっているのと同じです。ウクライナも同様にこのソ連の政策により1932年から1933年にかけて330万人~数百万人が大飢饉の犠牲(ホロドモール)になっています。

バルト三国は50年間ソ連の残酷な占領下にあったと書かれています。これらのことは共産主義という思想に傾倒した者の犠牲になったといっても過言ではありません。まさにバルト三国がウクライナを支援するのはこれが理由です。今もなお、バルト三国に残した共産主義国ソ連の爪痕が今も残っているということが伺えます。

この記事によると人口が減ったところにソ連(現ロシア)人が住みついたことが分かります。次のような記事を見付けました。この記事は上記のような重要なポイント(背景)を省略した非常に薄っぺらな記事ではありますが、これもバルト三国に残した共産主義国ソ連の爪痕の1つだと考えられます。
引用:
【ショートコラム】ロシア系住民が明かす“二重の苦しみ”2023年3月31日 NHK https://www3.nhk.or.jp/news/special/international_news_navi/articles/cor/2023/03/31/30586.html
ロシアと国境を接するバルト三国の1つ、エストニア。軍事侵攻から1年となる2月に首都タリンを訪れると、「自由広場」と呼ばれる、エストニアの独立戦勝記念碑がある広場に面する建物にはエストニアの国旗とともに大きなウクライナの国旗も掲げられていました。エストニアの首都タリン 「自由広場」
第二次世界大戦中の1940年に旧ソビエトに併合され、その後、半世紀にわたってソビエトによる支配を受けたエストニア。1990年に独立を宣言した後もロシアの動向を強く警戒し、ロシアによる軍事侵攻が始まってからは他のバルト三国とともにウクライナへの軍事支援の議論を主導しています。
一方で、エストニアにはソビエト時代に多くのロシア人が移り住み、ロシア語を話すロシア系住民は人口の4分の1、およそ30万人にのぼります。タリンにあるロシア正教会で話を聞いた中年の女性は「エストニアで暮らせなくなる」とビデオカメラでのインタビューはかたくなに拒みながらも、その複雑な思いを明かしてくれました。
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