兵庫県 明石と宮本武蔵

  • ここでは新たな話題の追加投稿はできません。
  • ここではゲスト投稿が禁止されています

投稿ツリー




前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 .2 | 投稿日時 2016/3/21 1:39 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2011
先日、明石城の坤櫓(ひつじさるやぐら)が公開されていて、櫓内を見学しました。櫓内にあの歴史的な剣豪とされる宮本武蔵の略年譜が展示されていました。当時、明石では宮本武蔵が現在でいう区画整理である町割りを行ったり、明石城下に庭園造ったり、新しい剣術「円明流」(のち「二刀一流」「二天一流」とよぶ)を編み出したりしていたようです。宮本武蔵の出生は色々な説がありますが、この略年譜では現高砂市米田町の生まれとなっています。播州人なのですねぇ。

面白いことに戦国時代には関ヶ原の合戦にも参戦していたようです。また、あの島原の乱にも参戦し足を負傷したとなっています。この略年譜通りであれば、もし、あの有名な巌流島での佐々木小次郎との対決が事実で武蔵の名が全国に知れ渡っていたとしたらその2年後、3年後の大阪冬の陣、夏の陣ではそこそこの武将として名を連ねて参戦していてもおかしくないのになぜ挙がっていないのでしょうか。当時も武将になるにはそれなりの家柄、権力、財産がなければ無理なのでしょうか。という疑問が残ります。

そもそも宮本武蔵が有名になったきっかけは息子である伊織が残した一千百余文字で書かれた「小倉碑文(漢文)」にあるようです。これだけのものを残すということは血のつながりがあるかどうかは別にして自分を支えてくれた父である宮本武蔵を本当に尊敬して止まなかったのだと思われます。後にこの小倉碑文の解釈の仕方により色々な話が付け加えられることになります。今も昔も本を売るには興味ある話がないと売れません。実は話を誇張しすぎることによって本来の宮本武蔵の姿とは違い、本人とは程遠いヒーロー的な姿として捉えられてしまっているのではないのでしょうか。ただ事実として、自分の息子を大切にしていたことがこの略年譜から伺えます。

もし、明石に来るようなことがあれば明石城、駅前の区画整理の状態を見て宮本武蔵を偲ぶというのも良い旅になるかもしれません。

----------------------------
武蔵の生涯(略年譜) ※は独自の追加分

天正12年(1584年)
武蔵は播州印南郡米堕村(現 高砂市米田町)の地侍 田原家貞の二男として出生。
天正19年(1591年)8歳
美作国の宮本無二助の養子となる。
慶長元年(1596年)13歳
佐用・平福で初めての真剣勝負で有馬喜兵衛に勝つ。
慶長4年(1599年)16歳
但馬の兵法者 秋山某と試合して勝つ。
慶長5年(1600年)17歳
関ヶ原の戦いで宇喜多秀家の配下として参戦する。
慶長9年(1604年)21歳
吉岡一門と一乗寺下り松で決闘する。奈良宝蔵院槍術と戦う。
慶長10年(1605年)22歳
伊賀で宍戸梅軒を倒す。兵法書「兵道鏡」を著わす。
慶長16年(1611年)28歳
江戸で大瀬戸隼人、辻風某を倒す。
慶長17年(1612年)29歳
巌流島において佐々木小次郎を倒す。伊織出生。
慶長19年(1614年)31歳
大阪冬の陣で豊臣方に荷担し戦う。
元和元年(1615年)32歳
大阪夏の陣で徳川方の水野勝成軍に属し、豊臣方を攻める。大阪城落城し豊臣家滅亡する。
※元和元年(1618年)35歳
明石初代藩主小笠原忠真より客分として姫路から明石へ招かれた。
※元和元年(1619年)36歳
明石城築城と同時に町割りを行った。
寛永3年(1626年)43歳
伊織15歳で明石初代藩主 小笠原忠真の御近習(ごきんじゅ)となる。
寛永8年(1631年)48歳
伊織20歳で明石藩の家老となり知行2000石となる。
寛永9年(1632年)49歳
肥後熊本藩主 加藤忠弘(清正の子)が改易となる。小笠原忠真は豊前小倉15万石へ転封となる。
寛永11年(1634年)51歳
武蔵は小倉を訪れ小笠原忠真の客人となる。
寛永14年(1637年)54歳
島原の乱起こる。伊織と共に小笠原一族の軍監の要職で参戦し、足に重傷を負う。伊織27歳で武功をたてる。
寛永17年(1640年)57歳
熊本藩主 細川忠利の客人となり、熊本千葉城跡に住む。
寛永18年(1641年)58歳
「兵法三十五箇条」を書きあげる。
寛永20年(1643年)60歳
霊厳洞(れいがんどう)にこもり「五輪書」の執筆に入る。
正保2年(1645年)62歳
「独行道」「五輪書」完成。武蔵死去。伊織34歳。
※承応3年(1654年)
伊織が武蔵を弔うため「小倉碑文」を建立。伊織43歳。
延宝6年(1678年)
伊織67歳で死去。
投票数:0 平均点:0.00

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2016/6/2 17:25 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2011
この度、熊本まで行く機会があり、宮本武蔵が最後に五輪書を書いた場所である霊厳洞まで行ってきました。近くの岩戸の里公園に武蔵の生涯についての説明があり、生まれは岡山県英田郡大原町宮本と記されています。これはちょっと異議あり!

こちらの略年譜には8歳の時に養子となって岡山に行ったことになっています。私の思うに高砂市の生まれで8歳まで暮らしいたとすれば、高砂市は地理的に姫路城と明石城のちょうど真ん中になるので土地勘がありここを行き来していたとしても不思議ではないと思われます。従ってこの略年譜のほうがより信憑性があると思います。
投票数:0 平均点:0.00

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2019/6/7 8:07 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2011
どちらかというと戦国の武将、剣豪というイメージが強い宮本武蔵ですが、1619年宮本武蔵が36才の時、明石城築城と同時に町割り(区画整理)を行い、また意外と庭師としての作品も明石駅近くに残しています。さすがに城主から依頼された明石公園内にある庭園は広く、それ以外はそれぞれの寺から依頼されたものと思われどれもこじんまりとしたものです。五輪書(兵法の書物)以外にも作庭方法の書なども残しても良かったのではと思ったりします。

明石公園内
宮本武蔵が初代明石城主小笠原忠政(忠真)の命を受け城の西に遊興所(樹木屋敷)として作庭したものです。現在の庭は大正11年の明石公園大拡張工事の際城の南に移設されたものを復元したものです。


以下規模は小さいものの宮本武蔵が作庭したものとされています。ただし、1945年に明石空襲の被害を受けているのでどれだけ再現したのかは定かではありません。
雲晴寺 枯池枯山水


圓珠院


本松寺 枯池枯山水(残念ながら一般公開はしていないようです。)



投票数:0 平均点:0.00

  条件検索へ


旅と気ままなフォーラムメニュー

旅と気ままなフォーラム新着投稿

欲しい商品が必ず見つかるメジャーなネットショップ

このサイト内の検索

オンライン状況

23 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが 旅と気ままなフォーラム を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 23

もっと...

Facebook,RSSリンク表示


RSSicon 最新記事のRSS