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日本が戦争放棄してからの日本に関わる紛争(その1)

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なし 日本が戦争放棄してからの日本に関わる紛争(その1)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2020/12/3 21:14 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2150

■ソ連による日本への侵攻

ソ連(ソビエト連邦共和国、当時の指導者スターリン)は1941年4月13日に日ソ中立条約を結んでいるにも関わらず、戦況を鑑み1945年8月8日に破棄し、8月15日の終戦後も弱体化した日本への一方的な戦闘攻撃を行い可能な限り日本の領土を侵略したということになります。
引用:
1941年4月日ソ中立条約 - Wikipediaより
なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。また満州では逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終了した。

また、1945年(昭和20年)8月22日緊急疎開船3隻がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け犠牲者が出ています。
引用:
三船殉難事件 - Wikipediaより
三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す

 

■ソ連侵攻から一般人を守った軍人

日本の軍人の中には、戦闘行為を停止するよう命令が出された後もこのような一方的な違法戦闘行為(侵攻)に対しソビエト軍から民間人を守るべく立ち上がった人もいます。今だから分かることですが、もし、この時、命令通り戦闘行為を停止しソ連軍の侵攻に無抵抗であったならば、多くの市民が虐殺される、あるいは奴隷労働として収容され、さらに領土を侵略されていたことは当時のソビエト軍を指揮していたスターリンの思想から伺い知ることができます。
引用:
根本博 - Wikipediaより
終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。
復員後の1949年には、中華民国の統治下にあった台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮し、中共政府の中国人民解放軍を撃破。中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となった。

根本博はこのようにソ連軍から一般人を守り、戦後、避難する際に協力してくれた蒋介石に恩義を感じ密航して台湾に渡り、蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党と内戦において、正念場となる金門島にて戦闘を指揮し中国共産党を撃破した事でも知られています。
 

■ユダヤ人を救済した日本人

引用:
樋口季一郎 - Wikipediaより
敗戦、1945年8月18日以降、占守島、樺太における対ソビエト軍への戦闘を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、GHQのダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した

この時、なぜソビエト軍のスターリンの樋口季一郎引き渡し要求にユダヤ人達が立ち上がったのか、
引用:
樋口季一郎 - Wikipediaより
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ連~満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。ししかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。
極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。

つまり、人数の信憑性は確かではないものの、この「ヒグチ・ルート」と呼ばれるルートで救われた2万人ものユダヤ人の存在があったからです。しかし、このことは、当時ドイツと同盟を結んでいた経緯もありドイツから抗議があったとされています。
引用:
樋口季一郎 - Wikipediaより
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった。そんな中樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした。東条の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。

同様に、1940年7月から8月にかけて、外務省に所属していたから杉原千畝も訓令に反して大量のビザを発給し、当時ドイツから弾圧されていたユダヤ人を救ったことで多くの人に称賛されています。よく考えてみれば、大量のビザを発給したとしても当時の軍部の協力がなければユダヤ人救済は成り立たない話なのです。つまり、軍人である樋口季一郎のこの「弱い者苛めは許さない」という信念がユダヤ人救済を当時の軍部に認めさせ協力に至らせたと見るのが自然ではないでしょうか。
 

■弱い者苛めは許さないという信念

結果、この樋口季一郎の「弱い者苛めは許さない」という信念が一方的なソビエト軍への戦闘に至らせ、また、世界的な規模で樋口救済運動を展開させ、GHQのダグラス・マッカーサーをも動かし樋口季一郎救済に至った、ある意味、当時のソ連軍による一方的で違法な戦闘攻撃(侵略行為)は「弱い者苛めであった」と世界に認識させたと言っても過言ではありません。

 
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