平和とは何か

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2020/12/3 21:06 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2140
一般的に日本で平和とは「戦争、紛争状態」がない状態と考えられています。では、日本がこの平和と考えられる状態になったのはいつなのだろうか?
日本においては第二次世界大戦の正式な終結は1945年(昭和20年)8月15日(ポツダム宣言の受諾)に戦闘行為を停止するよう命令が出され戦後として認識されています。世界的には、1945年9月2日(日本が降伏文書に調印した日)とされています。つまり、戦争、紛争がなく平和になった状態と認識されます。1951年9月8日に、サンフランシスコ市内のオペラハウスで、サンフランシスコ平和条約がソ連を除き日本を含む49か国で調印され、日本は連合国による占領が終わり、主権を回復しました。これで世界で平和が締結されたという認識となります。(ただし、中国は内紛の為出席できなかった)

しかし、実際には、日本において戦後とされる1945年8月15日後も様々な紛争が続いていたのは事実です。以下の要点にまとめて記述していくことにしました。
要点
・日本が戦争放棄してからの日本に関わる紛争(その1)
・日本が戦争放棄してからの日本に関わる紛争(その2)
・日本が戦争放棄してからの日本に関わる紛争(その3)
・平和思想の違い
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2020/12/3 21:14 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2140

■ソ連による日本への侵攻

ソ連(ソビエト連邦共和国、当時の指導者スターリン)は1941年4月13日に日ソ中立条約を結んでいるにも関わらず、戦況を鑑み1945年8月8日に破棄し、8月15日の終戦後も弱体化した日本への一方的な戦闘攻撃を行い可能な限り日本の領土を侵略したということになります。
引用:
1941年4月日ソ中立条約 - Wikipediaより
なおソ連軍による日本侵攻作戦は、自ら8月9日に承認したポツダム宣言受諾による戦闘行為停止の8月15日正午のみならず、9月2日の日本との降伏文調印をも完全に無視して継続された。南樺太と千島列島、満洲などは沖縄戦同様民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦となった。また満州では逃げ遅れた日本人開拓民が混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残ることとなった。結局ソ連軍は満洲のみならず、日本領土の南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞、朝鮮半島北部の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的で違法な戦闘攻撃を終了した。

また、1945年(昭和20年)8月22日緊急疎開船3隻がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け犠牲者が出ています。
引用:
三船殉難事件 - Wikipediaより
三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)は、第二次世界大戦終戦後の1945年(昭和20年)8月22日、北海道留萌沖の海上で樺太からの疎開者を主体とする日本の緊急疎開船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がソ連軍の潜水艦(L-12号・L-19号)からの攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,708名以上が犠牲となった事件を指す

 

■ソ連侵攻から一般人を守った軍人

日本の軍人の中には、戦闘行為を停止するよう命令が出された後もこのような一方的な違法戦闘行為(侵攻)に対しソビエト軍から民間人を守るべく立ち上がった人もいます。今だから分かることですが、もし、この時、命令通り戦闘行為を停止しソ連軍の侵攻に無抵抗であったならば、多くの市民が虐殺される、あるいは奴隷労働として収容され、さらに領土を侵略されていたことは当時のソビエト軍を指揮していたスターリンの思想から伺い知ることができます。
引用:
根本博 - Wikipediaより
終戦時に内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官として、終戦後もなお侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救った。
復員後の1949年には、中華民国の統治下にあった台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮し、中共政府の中国人民解放軍を撃破。中共政府は台湾奪取による統一を断念せざるを得なくなり、今日に至る台湾の存立が決定的となった。

根本博はこのようにソ連軍から一般人を守り、戦後、避難する際に協力してくれた蒋介石に恩義を感じ密航して台湾に渡り、蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党と内戦において、正念場となる金門島にて戦闘を指揮し中国共産党を撃破した事でも知られています。
 

■ユダヤ人を救済した日本人

引用:
樋口季一郎 - Wikipediaより
敗戦、1945年8月18日以降、占守島、樺太における対ソビエト軍への戦闘を指揮した。そのため極東国際軍事裁判に際し、スターリンは当時軍人として札幌に在住していた樋口を「戦犯」に指名した。
世界ユダヤ人会議はいち早くこの動きを察知して、世界中のユダヤ人コミュニティーを動かし、在欧米のユダヤ人金融家によるロビー活動も始まった。世界的な規模で樋口救済運動が展開された結果、GHQのダグラス・マッカーサーはソ連からの引き渡し要求を拒否、樋口の身柄を保護した

この時、なぜソビエト軍のスターリンの樋口季一郎引き渡し要求にユダヤ人達が立ち上がったのか、
引用:
樋口季一郎 - Wikipediaより
1938年(昭和13年)3月、ユダヤ人18人がドイツの迫害下から逃れるため、ソ連~満州国の国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。ししかし、亡命先である米国の上海租界に到達するために通らなければならない満州国の外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。
極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、直属の部下であった河村愛三少佐らとともに即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態にあった出国の斡旋、満州国内への入植や上海租界への移動の手配等を行った。

つまり、人数の信憑性は確かではないものの、この「ヒグチ・ルート」と呼ばれるルートで救われた2万人ものユダヤ人の存在があったからです。しかし、このことは、当時ドイツと同盟を結んでいた経緯もありドイツから抗議があったとされています。
引用:
樋口季一郎 - Wikipediaより
この事件は日独間の大きな外交問題となり、ドイツのリッベントロップ外相(当時)からの抗議文書が届いた。また、陸軍内部でも樋口に対する批判が高まり、関東軍内部では樋口に対する処分を求める声が高まった。そんな中樋口は関東軍司令官植田謙吉大将(当時)に自らの考えを述べた手紙を送り、司令部に出頭し関東軍総参謀長東条英機中将(当時)と面会した際には「ヒットラーのおさき棒を担いで弱い者苛めすることを正しいと思われますか」と発言したとされる。この言葉に理解を示した東条英機は、樋口を不問とした。東条の判断と、その決定を植田司令も支持したことから関東軍内部からの樋口に対する処分要求は下火になり、独国からの再三にわたる抗議も、東条は「当然なる人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。

同様に、1940年7月から8月にかけて、外務省に所属していたから杉原千畝も訓令に反して大量のビザを発給し、当時ドイツから弾圧されていたユダヤ人を救ったことで多くの人に称賛されています。よく考えてみれば、大量のビザを発給したとしても当時の軍部の協力がなければユダヤ人救済は成り立たない話なのです。つまり、軍人である樋口季一郎のこの「弱い者苛めは許さない」という信念がユダヤ人救済を当時の軍部に認めさせ協力に至らせたと見るのが自然ではないでしょうか。
 

■弱い者苛めは許さないという信念

結果、この樋口季一郎の「弱い者苛めは許さない」という信念が一方的なソビエト軍への戦闘に至らせ、また、世界的な規模で樋口救済運動を展開させ、GHQのダグラス・マッカーサーをも動かし樋口季一郎救済に至った、ある意味、当時のソ連軍による一方的で違法な戦闘攻撃(侵略行為)は「弱い者苛めであった」と世界に認識させたと言っても過言ではありません。

 
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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿.1 | 投稿日時 2020/12/3 21:23 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2140

■戦後中国の内戦による領土の拡大

辛亥革命(1912年、皇帝政治の終焉)以前、清の時代(1644年から1912年まで)は少数民族である満州人が民族の9割を占める漢民族を支配していました。この革命は、皇帝政治から民主化への革命と同時に少数民族である満州人支配の状況からの漢民族の国家回復を目指すものでもあります。
引用:
清 - Wikipedia
清(しん)、または大清帝国(だいしんていこく)は1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清と号した。清朝、清国、清王朝、大清国、大清ともいう。

引用:
内モンゴル独立運動 - Wikipedia
辛亥革命後、1912年1月1日に漢民族によって中国本土に中華民国が建国されると臨時大総統に就任した孫文は漢人・満州人・モンゴル人・ウイグル人・チベット人を一つに合わせて一国とする旨を宣言した。

辛亥革命後時点では、そもそも多民族国家であるということを認識していたということになります。しかし、この宣言通りにはならず、それぞれの民族が独立の宣言、あるいは意志を示しています。日本の戦後(1945年)以降、中華民国(蒋介石側)と中華人民共和国(毛沢東側)の内紛を制した中国共産党はそれぞれ独立している(領土を確保し、政治経済的に自立している)少数民族(満州・モンゴル・ウイグル・チベット)に対し、これらの民族を武力であるいは武力を背景に領土を接収しています。
 

■チベット

引用:
中華人民共和国によるチベット併合- Wikipediaより
中華人民共和国によるチベット併合とは、中国共産党がチベットを支配するようになる過程を指す。併合は、1.チベットの東北部・東部に限る併合(1948 - 1949)2.中央チベットに及ぶ併合(1950 - 1951)の二段階に分類される。中国では18世紀の雍正のチベット分割以来、後者の領域を「西藏」と名付けており、中華人民共和国は、後者を指して、特に「西藏和平解放」(シーツァンホーピンチエファン/プーシーウェーチンドゥル)と名付けている。
「第一段階」では、中華民国の青海省長馬歩芳や西康省長劉文輝らを降してアムド地方やカム地方の北部・東部・南部を制圧、ついで「第二段階」でチベット政府ガンデンポタンを屈服させ、カム地方の西部やウー・ツァン地方、ガリ地方を制圧、これにより、中華人民共和国は、チベットの全域を制圧することとなった。
チベットおよび西側諸国では、この併合を「侵略」としているが、中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。
これを契機として、中国政府とチベット政府ガンデンポタンの間で「十七か条協定」が「締結」され、チベット軍は中国人民解放軍に編入され(同協定第八条)、チベットの全域が中華人民共和国の支配下に入った
辛亥革命後(1912年)にチベットは自立し、第二次世界大戦においては中立政策を保持していた。ただし第二次世界大戦におけるチベットは、中立政策を掲げながらもイギリス軍やアメリカ軍などの連合国軍へ、中華民国への兵站線を提供していた。
当時のチベットの指導者は第14代ダライ・ラマであった。第二次世界大戦が1945年に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、中国国民党内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した国共内戦で先送りにされた。
1949年の時点でチベットおよび西側の報道では、この侵攻を一般に侵略と呼んでいた。例えば亡命チベット人のペマ・ギャルポは「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する。一方、中華人民共和国内では、この事件を、「チベットの平和的な解放」と呼んでいる

 

■新疆ウイグル自治区

引用:
辛亥革命の後、清朝の版図を引き継いだ中華民国に属しながらも、漢民族の省主席によって半独立的な領域支配が行われた。これに対して1933年と1944年の二度にわたって土着のムスリム(イスラム教徒)によって民族国家東トルキスタン共和国の建国がはかられたが、国共内戦で東トルキスタン共和国のセイプディン・エズィズィと新疆省のブルハン・シャヒディらが中国共産党に帰順したことでこの地域は中国人民解放軍が展開し、1955年に新疆ウイグル自治区が設置された。
1966年には自治区内に文化大革命が波及。こと文革に関しては、少数民族を多く抱える同自治区の闘争は中国の他地域と比較してある程度は抑制されていたというが、それでも一部で行なわれたモスクの破壊や紅衛兵同士の武装闘争により、混乱に拍車がかかった。

 

■内モンゴル自治政府

引用:
内モンゴル独立運動- Wikipedia
1932年に関東軍が清朝皇帝であった溥儀を執政とした満州国を建国した。これにより内モンゴル東部は満州国となった。満洲国では清王朝以来続く満洲・モンゴルの友好血縁関係からモンゴル人は積極的に満州国皇帝に仕えた。1935年3月、ソビエトは内モンゴル東部(満州国内)に権益を持っていた北満鉄道を満州国に売却する。内モンゴルの中部ではチャハルのデムチュクドンロブ(徳王)やユンデン・ワンチュク(雲王)などの王公によって自治要求運動がなされるようになり、1936年には自治を求める内モンゴル軍(ru)と中華民国軍とが全面衝突した(綏遠事件)。1939年、デムチュクドンロブは日本の支援を受けて蒙古聯合自治政府を樹立し内モンゴルにモンゴル人による自治政府が誕生した。ただし、総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル人は15万4203人だった。満州国とともに蒙古聯合自治政府はそれぞれ独自の行政機関・軍事組織・通貨をもつなど中国本土とは完全に分離した政治経済体制であった。
1941年4月13日、日ソ中立条約がソビエト連邦と日本の間で締結され、満州国(内モンゴル東部)とモンゴル人民共和国(外モンゴル)の領土保全と相互不可侵を約束した共同声明が出された。ところが、1945年2月11日にソビエト連邦・アメリカ合衆国・大英帝国はヤルタ会談を開き、満州を中華民国のものとし、北満鉄道・南満州鉄道をソ連・中華民国共同のものとすることを取決め、外モンゴルのみを独立させ、内モンゴルを中華民国の影響下とした上で現状維持とすることをモンゴル人・満州人の意志とは関係なく決定した。
1945年8月、ソ連対日参戦によるソビエト連邦軍(赤軍)とモンゴル人民共和国軍の侵攻に満州国(一部が内モンゴル東部)と蒙古連合自治政府は崩壊する。


■満洲

当時ソ連が制圧後、意図的に中国共産党に引き渡されたとされています。
引用:
文教大学国際学部紀要 第16巻1号 2005年7月
戦後初期の満州における中国共産党の「政府」樹立工作
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjz5f3ox_LsAhWac3AKHQEtAiAQFjAAegQIAxAC&url=https%3A%2F%2Fbunkyo.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D3601%26file_id%3D37%26file_no%3D1&usg=AOvVaw0tY7JOBCjMnQ_98hiGR3Hy
丸 山 鋼 二
中華人民共和国は、第二次大戦後に中国大陸で勃発した国共内戦に中国共産党(中共)が勝利した結果として建国された。その国共内戦では、満州の戦場での勝敗がとりわけ重要な役割を果たした。戦後初期(1945年9月~11月)、いまだ国民政府軍が満州の地に到達していない時に、いち早く満州への進軍に成功した中国共産党は満州駐留のソ連軍に対して「ひそかに」支援と協力を求めた。その支援・協力内容は、
①中共軍が関東軍・満州国軍の武器弾薬類を獲得することを支援してくれるとともに、満州国の有する工業設備や軍需工場を接収できるように軍事面での接収に協力してくれること②ソ連軍の撤退時期を延期するとともに、11月と12月の2ヶ月間蒋介石軍の東北への進駐を拒否してくれること、③中共がすぐに政権を接収し自治政府を民選できるように許可してくれること、の3点にまとめることができる。
ソ連軍の満州からの撤退が当初予定よりも延期されれば中共軍はソ連軍から暗黙の支援や積極的な協力をより多く得ることができ、そして事態が中共の思惑通りに進めば全満州を独占することも夢ではないと、毛沢東さえも期待を寄せていた。そのためには、大軍を進軍させている中共軍主力部隊が国民政府軍に先行して満州に到着し自力で国民政府軍の進駐を阻止できるようになるまでは、ソ連軍が国民政府軍の進駐を拒否し続けていてくれることを期待していたのである。・・・
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タツ  管理人   投稿数: 2140

■朝鮮半島の南北分断と朝鮮戦争勃発

引用:
朝鮮戦争 - Wikipedia
朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(南朝鮮、韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で生じた朝鮮半島の主権を巡る国際紛争。通説では1950年6月25日に金日成率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略を仕掛けたことによって勃発したとしている。
第二次世界大戦中の1943年11月に、連合国はカイロ宣言に於いて、1910年より日本領となっていた朝鮮半島一帯を、大戦終結後は自由独立の国とすることを発表した。1945年2月に開催されたヤルタ会談の極東秘密協定にて米英中ソ四ヶ国による朝鮮の信託統治が合意された。
1945年8月8日よりソ連対日参戦により満洲国に侵攻したソ連軍(赤軍)は8月13日に当時日本領だった朝鮮の清津市に上陸していたが、ソ連と共に連合国を構成していたアメリカ合衆国は、1945年4月12日に大統領に昇格したハリー・S・トルーマンの反共主義の下で、ソ連軍に朝鮮半島全体が掌握されることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案。ソ連はこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍に分割占領された。

この分断は1949年、第2次世界大戦後、戦勝国の大国によりドイツは資本主義経済の西ドイツとソ連の共産主義思想を根底とする社会主義国経済の東ドイツとに分断されましたがこの分断と状況がよく似ています。つまり共産主義思想を根底とする社会主義国(ソ連、中国等)と資本主義経済の国(アメリカ、イギリス等)の権力争いの結果とも言えます。北朝鮮は共産主義を根底とする社会主義国で開戦当時韓国との武力均衡は格段に有利だったとされています。つまり侵略を仕掛けた背景には韓国の武力が弱体化していたのもきっかけの1つです。
引用:
朝鮮戦争(1950年6月25日 ~ 1953年7月27日) - Wikipedia
日本からは、日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、特別掃海隊として派遣された海上保安官や、海上輸送や港湾荷役に従事する民間人など、総計で8,000人以上の日本人が朝鮮半島およびその周辺海域で活動し、開戦からの半年に限っても56名が命を落とした

実際には日本もこの戦争に参加し命を落とした人たちがいます。
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なし 平和思想の違い

msg# 1.1.1.1.1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2020/12/3 21:38 | 最終変更
タツ  管理人   投稿数: 2140
一般的な認識では独立している(領土を確保し、政治経済的に自立している)民族に対して武力あるいは武力を背景に接収することを侵略と考えますが、共産主義を根底とする社会主義国はいわゆる民族の開放と考えているのです。
例えばチベット侵攻では、チベットおよび西側諸国では、この併合を「侵略」としているが、中国共産党は「西蔵人民」の「帝国主義侵略勢力および国民党反動勢力」からの「解放」と位置づけている。あるいは亡命チベット人のペマ・ギャルポは「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する。一方、中華人民共和国内では、この事件を、「チベットの平和的な解放」と呼んでいると全く相反する思想です。では中国共産党はどういう思想をもっているのだろうかという疑問が湧いてきました。
 

■中国共産党の平和概念

引用:
「広島平和科学」10 (1987)
中国の平和教育(久留島幹夫著) 1987年 https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/1/15178/2014101612282718144/hps_10_125.pdf
131~132ページ抜粋
思想政治教育は,学校教育全体を通じて行われるもので,各教科はもちろん,課外活動もすべて,思想政治教育と結び付けられている。思想政治,道徳教育を専門に行う教科として,小学校で,思想品徳科があり,五愛(祖国,人民,労働,科学,社会主義を愛する)を中心とした共産主義思想品徳教育を行っている。中学では政治科が設けられており,初級中学(中学校)では各年次毎に「青少年修養」,「法律常識」,「社会発展略史」が教えられ,高級中学(高等学校)では,「政治経済常識,「弁証唯物主義常識」が講じられている。
これらの教科における平和の取り扱いであるが,典型的なのは「青少年修養」の愛国主義を語る次の部分である。
「祖国を愛すること,それは祖国を防衛する栄えある責務を担うことという志を立てることから始まる。世界には,まだ帝国主義,覇権主義,植民地主義が存在しており,我々は不断に国防力を強化し,我が社会主義国家を防衛しなければならない。覇権主義に対し,世界平和を擁護することは,今日の世界人民の最も重要な任務である」
このように,愛国,祖国防衛,世界平和の用語が同列に並んでいる。生徒は,これをどのように学ぶのか,その結論をテストの解答で見てみよう。高校入試の政治分野で出題された「新しい歴史時期に於ける愛国主義の内容とは何か?」という質問に対する模範解答は,「①社会主義現代化建設を推進する,②台湾を含む祖国の統一を図る,③覇権主義に反対し,世界平和を擁護する」ということである。言い換えれば,祖国の富強を図り,中華民国の民族尊厳を守り,同じ民族の尊厳を守ろうとする者を支援するということになる。ここで言う世界平和とは,戦争をなくすることを意味ではなく,抑圧された民族の為に闘うことを意味する。平和は,軍隊により守るものだと考えられている。

つまり、一般的には侵略とみなされることも、共産主義を根底とする社会主義国にとっては民族の開放であり、それが世界平和だと考え正しいことをしているという認識なのです。
 

■武力侵攻の実際

例えば、中華人民共和国によるチベット併合- Wikipediaにはこんな記述があります。
引用:
中国共産党、「チベット併合」を発動
毛沢東率いる中国共産党は国共内戦に勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、ガンデンポタンの勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中国政府は、ガンデンポタンの勢力圏への侵入に着手する。1950年1月1日に、中国国際放送(ラジオ北京)は「パンチェン・ラマ10世の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した。サムドン・リンポチェおよびダライ・ラマ14世はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言し、中国軍の侵攻は避けられないものとなった

さらに、対象国が弱体化していれば国家間の約束事は関係なく武力侵攻するという特徴があります。日ソ中立条約を破り1945年8月8日に弱体した日本に侵攻したスターリンのソ連軍、1948年朝鮮戦争で圧倒的な武力がある北朝鮮が韓国へ侵攻したこともその1つでしょう。国家間の約束事よりも思想が優先されるのです。

これらのことは、最近、2014年ロシアが弱体化したウクライナのクリミア半島にロシアが武力によって侵攻(侵略)した思想(理由)とよく似ています。
1.クリミアは元々ロシアの領土である。
2.クリミア半島の住民はほとんどロシアへの帰順を希望している
というのが理由です。さらに、この武力侵攻は、1994年12月5日のブダペスト覚書(約束)も無視されているのです。
引用:
ブダペスト覚書
1994年12月5日にハンガリーのブダペストで開催された欧州安全保障協力機構(OSCE)会議で署名された政治協定書で、ベラルーシ、カザフスタン、ウクライナが核不拡散条約に加盟したことに関連して、協定署名国がこの3国に安全保障を提供するという内容。アメリカ合衆国、ロシア、イギリスの核保有3カ国がこの覚書に署名。また中国とフランスは別々の書面で若干の個別保障をしている
同覚書はセルゲイ・ラブロフ(ロシア連邦の外交官・政治家。2004年3月から4代目ロシア連邦外相。他国の間では強硬な外交姿勢を取る人物として知られている)ほかの署名のもと国連へ伝達したものであった

これも所謂「抑圧された民族の為に闘うこと」つまり共産主義を基本とした国の論理なのです。ロシアも旧ソ連からの共産主義思想を受け継いでいるのだと思われます。ウクライナが核という武力を放棄し弱体した国を狙うという点も同じです。

 

■現実的な脅威

残念ながら、現実的に共産主義を根底とする社会主義国にはこういう武力によって領土を現状変更しようとする行為は現在も事実上継続(日本も含め、南シナ海、台湾、インド等)されています。武力の均衡がなく弱体化すれば武力あるいは経済によって領土を侵略されるでしょう。

仮に日本が弱体化し、ロシアがウクライナのクリミア半島に侵攻した時と同じシナリオが使われたとしたならば、クリミア半島を沖縄、ロシアを中国共産党に置き換えてみると、まず沖縄を琉球民族の自治区として形成させ、アメリカ駐留軍を追い出し、もともとは中国の領土だったと主張した上で、武力を背景に住民投票を行い民族の開放と称し沖縄は中国共産党に帰属することになるかもしれません。

あるいは、現在、我が憧れの北海道では広い範囲で中国の土地買収が行われています。
引用:
https://facta.co.jp/article/201912021.html
北海道が中国の32番目の省になる日
李克強、王岐山に続き習近平も「来道」か。中国資本の国土買収の水面下で何が起こっているのか。
2019年12月号 LIFE
by 宮本雅史(産経新聞社編集委員)
中国の動向を長年注視している評論家に豊糠のケースを尋ねると、彼は「中国は20年前から北海道を狙ってきた。移民のためにこれからもどんどん北海道の土地を買っていくでしょう。水源地や農地では農作物を作れるから独自の集落、自治区をつくり、病院や軍隊用の事務所も設置する可能性がある。豊糠はそのテストケースと考えられる。一部メディアでは、北海道は10年後には中国の32番目の省になるとも言われている」と話した。彼の分析を聞いたのは2年前だから、10年後とは27年である。

この買収が今後進んでいくと北海道で多くの住民が中国からの移民となり、もし参政権が与えられたならば、武力、経済を背景に北海道の一部または全域で住民投票が行われ同じく民族の開放と称し中国共産党に帰属することになるかもしれません。その後は中国内の少数民族と同じような扱いを受けることとなるでしょう。さらに、日本全土も同様にとのシナリオが考えられます。この先そうならないことを願っています。

 

■平和とは

日本には、日本国憲法が平和を維持しているという人がいます。しかし、現在の日本国憲法は世界に武力あるいは経済によって領土の現状変更しようとするこういう国が存在しないという前提で初めて効力(平和維持)を発揮するものなのです。従って、現状では発揮することはできません。現実的には日本の平和は、現日本国憲法によって維持されているのではなく、武力の均衡(アメリカ軍駐留と自衛隊)によって維持されているのです。

領土侵攻(武力による現状変更)というものはよく国同士の問題を話し合いで解決するという人がいます。しかしながら根本的な平和という認識の違い(侵略とみなすか、民族の開放とみなすか)はどちらも正しいという平行線のままで解決できるものではないのです。ましてや、武力の均衡がなければなおさら解決することはありません。それでも解決しなければ国際社会に訴えるという人もいます。無論、国際社会の賛同を得ることは非常に重要なことですが、実際、クリミア半島侵攻の問題で国際社会が紛争を解決してくれたのかというとそうではないのです。結局、現状況下では自国で守るしかないのです。

平和とは世界各国がそれぞれ独立した他の国の主権を武力あるいは経済によって侵略する意図がない状態になることだと思います。この時に、はじめて現日本国憲法の効力(平和維持)が発揮できるでしょう。

 
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